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視覚的支配へのまなざし

 「こわいよね」と彼女は言った。警察が合法的に盗聴することを可能とする法律に彼女が恐怖を感じたのは、彼女の信仰のためなのか、もって生まれた彼女自身の感性のためなのか僕は知らない。
 そのとき以来の、彼女の魅力に惹かれた僕の、感覚を鍛えようとする並々ならぬ努力にも関わらず、僕自身の感性は幸か不幸かそれほど「左翼的」に発達してはいないので、僕は政治的なモメントに対して恐怖感や嫌悪感を抱いた記憶はあまりない。しかし、左翼的な感性を持っていると自称する人たちが決まって言うのが天皇や国旗・国家というものに対する嫌悪感とでも言うべきものである。そういう人たちは「皇室」の人たちに対して人々が白地に赤い丸を描いた旗を振っている光景を見ると、「気持ち悪い」といった感じの感覚を抱くらしい。


 「人が人に向かって旗を振る」。考えてみると確かに変な光景である。僕は生まれてこのかた、道を歩いていて人から旗を振ってもらったことなど一度もない。しかしどうも「陛下」や「殿下」に対しては白米と梅干しのようなデザインの旗を振ることが、自分のことを日本人だと思っている人たちには習慣になっているらしい。
 この文章はなんでみんなが旗を振りたくなるのかと言うことに関して僕が考えたことである。時々読んでいる人を煙に巻こうとして片仮名の人の名前を出したりしていることがあるかもしれないが、基本的には僕がちっぽけな頭の中で考えたことである。それでは視覚的支配へのまなざし、はじまり、はじまり。


 僕たちは自分たちが日本人だと思っている。でも「なんで日本人なの?」ってきかれたときすぐ答えられるだろうか。「そんなの簡単じゃないか、日本に住んでいるからだ」って考える人もいるだろう。でも日本とはどこからどこまでなのだろうか?今でも日本は北や南の島をめぐって領有権を廻りの国と争っていて、どこからどこまでが日本だとハッキリとは言えない。それに北海道や沖縄は「日本」になってから日が浅い。そういうところで「内地」という言葉が使われていると言うことがそのことを物語っている。それにそもそもなぜ日本という単位だけが絶対なのだろうか?僕たちは日本に住んでいることは確かだが、同時に地球に住んでいるともいえるし、関東に住んでいるともいえるし、○○県(自分の住んでいる県の名前を入れて下さい。「俺は都民だ」とか細かいことは言わないで。)に住んでいるともいえるし、○○市(同じく自分の住んでいる市の名前を入れて。「どうせおいらは村民さ」とかいじけないように。)に住んでいるともいえる。別に「僕は地球人です」って思ったっていいし、「私は名古屋人よ」と思ってもいいはずだ。「でも地球語や名古屋語はないだろ?日本語を話す人が日本人だ」という反論があるかもしれない。確かに僕は鹿児島の人とも北海道の人とも話せる。「言葉が一緒だから同じ日本人ということはいえるかもしれない」と思ったりもする。しかし、僕が鹿児島の人と会話ができるのは同じ言葉を学校で習っているからだ。江戸時代には鹿児島の人と青森の人というか、薩摩の人と津軽の人はコミュニケーションがとれなかったという。今だって、その土地の方言で話されたらお互いに理解し合うのはすごく大変であろう。僕らが同じ言葉を話せるのは何世代にも渡って同じ教育を受け、同じ本や新聞を読み、お互いに人々が行き来していたからだ。つまり別々のものであった言葉がひとつになったのはそこに「国家」ができたからであってその逆ではないのだ。結構、言葉や地理的な境界が国家と他の国家の自明的な差異として考えられやすいがそうではないのだ。国というまとまりがあってこそ、そういうものが人々の間に認識として共有されるのだ。僕たちがなぜ自分たちを日本人だと考えているのかということを考えるには国家というものがどう形成され発展したかを考える必要がある。


 国家とはどのように形成されたのか。とりわけ日本のような島国では、近代的な意味でのnationがいつ形成されたのかについては様々な議論がある。しかし、現在のようなかたちでの日本国家が成立したのは明治以後だと考える方が妥当であろう。少なくとも沖縄と北海道は江戸時代までは別の国だったのだから。そこで、ここでは明治政府がどのように日本国家をつくっていったのかを少し考えていきたい。  近代国家においては、そこに住んでいる人々が「国民」としての意識を持たない限り国家は存続し得ない。自分たちが同じく等しい国民であり、現在の政府がその国民を治める正統性をもっていると人々が認識しない限り国家はそれとして存続し得ない。そこにナショナリズムというものの必要が生じるのである。
 では人々はどのようなときnationalなものを感じるのであろうか。日本においてこの問題を考えるとき考えねばならないのが天皇制の問題である。日本におけるnationalな統合が天皇制というものを軸に進んだことは疑い得ない。以下ではそれがどのような手段をとったのか考えてみたい。
 明治政府が天皇を中心としたnationalな統合をつくりだしていく過程で最も有名なもののひとつが巡幸であろう。巡幸とは天皇が国内のいくつかの場所を旅行することであるが、そのことがどのようにnationalな統合を生み出すのか考察をしてみたい。
 そもそも江戸時代までの天皇は、その姿を見ることができたのは一部の近臣だけであった。天皇を中心としたnationalな統合をつくりだしていくためには何よりも人々が天皇という存在を知覚することが必要であった。これはただ生物的な存在としての天皇を人々に知覚させることだけでなく、政治的な天皇、すなわちnationalな統合の中心としてその存在を知覚させることが不可欠な要因であったことを物語っている。巡幸の具体的な様相は原武史がその著書、「可視化された帝国」の中で詳細に述べているが、そこには様々な要素があるといえる。しかしながらその最大の特徴を一言で言うならば、人々の視線を天皇という一点に集約するものであったということができよう。すなわちそれまで御簾の奥に隠れていた天皇という身体を人々の視線にさらすことによって権力の存在(とりわけ初期の巡幸が大規模に行われたことはいうまでもない)を人々に強く自覚せしめ、そのことによって人々が自らを「臣民」として自覚することが可能となるのである。またこの時に人々がこの世にひとつしかない「天皇」という存在を同時的に知覚したことは重要である。人々は同じ、天皇という権力を具現化するシンボルを、いわば共有することによって、「同じく等しい臣民」としての意識を持ったのである。このことはここの個人がただ天皇との間に君主と臣下という上下関係をつくっただけではなく、人々が仲間的な集団意識を持ちながらその意識を、天皇を中心としたnationalなものへと収斂させていったということがいえるのである。当然ながらそこではメディアの存在が大きくクローズアップされることになる。すなわちただ天皇が日本中をまわっただけでなくその動向が当時急速に広まりつつあった新聞を通じて広く国民に知られることによって、生身の肉体としての天皇の存在を共有しただけでなく、その行動に関する情報を人々は共有することになったのである。これにより人々の注目を直接的にせよ、情報を通じた間接的なものにせよシンボルとしての天皇に集めることに成功したのである。
 以上見てきたように巡幸により天皇という存在は人々の知覚するところになったわけであるが、ここで注意しなければならないのはここで知覚されるようになった天皇という存在がただ単純に一人の人間の生物的な身体ではなく政治的な存在であったということである。すなわちそこに一人の人間がいることはその人間が人々の視線を一身に集めそれにより人々が国民として自ら自覚していく限りにおいて必要なのである。天皇という存在は何よりも政治的なものであり、そのシンボルという政治上の意味をなすために生物的、物理的存在があるのである。このことは逆に言えばその政治的な目的が果たせれば天皇の生物的、物理的存在は必要ではないということである。すなわち人々がそこに天皇がいると感じまなざしを向けることが大事なのであって、実際に天皇が見える必要は必ずしもないのである。このことは実証的に確かめることができる。日本の鉄道網が充実するに従って巡幸における移動手段は鉄道が使われることが多くなる。実際にやってみればわかるが、高速で移動する電車の中にいる人物はほとんど無理であり、「お召列車」の中に実際天皇がいるかどうか確かめる術はない。しかし人々は天皇が見えると見えざるとに関わらず、列車に向かい日の丸を振り、敬礼したのである。このことは巡幸によって人々に可視化したのが天皇という生身の肉体そのものではなく、それが担っているnationalな統合の象徴としての政治的な意味であり、権力であったといえるであろう。


 この天皇の肉体が実態以上の政治的な意味を持つ例としていわゆる「御真影」の問題を考えることができる。多木浩二がその著書「天皇の肖像」で明らかにしているとおり、天皇の写真、いわゆる「御真影」が天皇制権力の可視化に与えた影響は非常に大きなものがあるといえよう。ここで強調されるべきは天皇の写真そのものが人々に必ずしも人間としての天皇そのものへの親近感を持たせるという効果をもたなかったことであろう。いわゆる「御真影」として有名な明治天皇の肖像は、御雇い外国人の宮廷画家キョッソーネの描いた明治天皇の肖像画を写真で移したものであることはまず指摘されねばならない。このことはつまり、人々が天皇だと思っているイメージそのものが本当の天皇をそのまま写した写真ではなくいわば加工されたイメージであるということである。そこでの天皇はありとあらゆる技術を使い、権力を体現する帝王として描かれている。構図、天皇の姿勢などありとあらゆるところに計算され尽くした帝王としての威厳が備わっており、天皇の写真であるという先入観も手伝って見るものに威厳を感じさせるような工夫がなされている。またこの写真が「御真影」として成立する過程もまたこの写真自身の、ひいては天皇制そのものの権威を高める役割を果たしている。よく知られているとおり「御真影」は全国の学校に「下賜」されたわけであるが、はじめから全国一律に下賜されたわけではない。はじめは天皇と何らかのゆかりのある学校(巡幸の途中に立ち寄るとか)に下賜されそののち申し出た学校に下賜されるというかたちをとった。このことは皇室という権威との距離における学校間の格差をつくりだすことによって権威の存在を認知させるとともに、宮内庁→文部省→県→群→学校という構造的な下賜の制度をつくることによって人々に天皇制という君主/臣下の構造を明らかにさせる効果を持った。さらにこの下賜が強制ではなく申し出に応じるという形をとったため君恩を形で表現するものとなったのである。これらのことは天皇の写真であるということに発する権威が下賜という「儀式」によって人々に浸透していくことを物語っている。多くの校長が「御真影」をまもるために火事の火の中に飛び込み命を落としたという事実はこの写真がただの権力者の写真という意味を越えそれ自身に権威をもちそれを人々に知覚させ、強制させるものとして機能していたことを何よりも雄弁に物語っている。


 またこのようなnationalな統合を地図の上で、そして物質的に象徴したのが「帝都」東京であった。首都としての東京が果たした役割はいくつかあるがここでは天皇制との関係でそれを捉えたいと思う。「首都」とはどのような場所であろうか。それは一国の政府機能がある場所であったり、その国にとって何かシンボル的な場所であったりする。しかし天皇制との関連で首都、東京というものを考えるならば、それは天皇の居所としてであろう。では天皇の居所として東京という首都がつくられる意義はどのようなものがあったのだろうか。東京が首都として定義されそれにあわせてつくり直されるということは、何よりも天皇の居所がひとつに定まるということを意味した。このことは天皇という存在を皇居というイメージにつなげることによって、人々が常に皇居に居住する人として天皇をイメージすることを可能にするのである。すなわち生身の天皇を思い浮かべなくとも、また実際に彼がどこにいるかに関わりなく、人々は簡単に天皇という存在について想起し考えることができるのである。このことは天皇という存在が物理的に可視化されることなしに天皇制やnationalなものが可視化される可能性をつくりだしたといえるであろう。そこで実際に天皇が生活をしていなくても、極端な場合は存在していなくても、人々は天皇という存在をイメージすることが可能になるのである。これは皇居のような天皇の存在に直結するような建物の建設によって可能になるのである。また同時にそのような意味を持った首都に靖国神社のような建物を建設することによって様々な物語をnationalなものにさらには天皇制それ自体へ回収していく機能を首都が果たしたということも指摘される必要があろう。
 また天皇の首都が果たしたもう一つの機能に人の流れの形成というものがあげられよう。皇太子の結婚や天皇の死去、新天皇の即位などに伴って行われる様々な皇室行事は、各地方からそのために上京してくる人々の流れを形成することになる。日本中から天皇家の儀式に参列するために集まってくる人々は日本中に自分と同じ行動がしている人たちがいることを発見するわけでそれによりつくられる意識は無視し得ないものがあるといえよう
。  またこのような人の流れという問題は何も皇室儀礼に伴うものだけでなく、より広く一般に存在するといえよう。B.アンダーソンがその著書「想像の共同体」で指摘しているように人々がその一生の中でどこに住みどこで働きどのような人と出会うかはそのアイデンティティの形成にとってもっとも重要なものの内のひとつである。この当時であればほとんどの日本人が日本国内で生活し、一生を終えるであろうことは容易に想像がつく。このことは裏を返せば「日本人」は日本の国内ならどこででも生活をする可能性があったということである。今日、鹿児島の人間が北海道に就職する可能性もあるし、福岡の人間はどんなに地理的に近かろうと釜山よりも東京の大学に行く可能性の方が高いのである。このようなことが何世代にも渡って幾重にも積み重ねられていく内に人々はnationalな境界をそれとして自覚することなく自然に摂取していくのである。
 このような人の流れの中心にあるのが東京であることはまず疑い得ない事実であろう。人々は東京に集まりまた散っていく。そしてそのようなプロセスを通じて個々の人の中での独自なアイデンティティである故郷は首都としての東京の前に相対化される。そこでは個々の故郷は東京に対する地方として知覚され、本来独自の存在であるはずのものが東京を中心とした同心円上に配置されていく。山形も、長野も、群馬も、山口もそこでは「地方」としてしか存在し得ない。Nationalな物語の周辺にいることを強要される地方はまた人の流れを通じてそれが東京を中心とした同心円的な構造であることに否応なしに気付かされる。それによって個々の地方は自分の土地のみならず日本中がnationalなヒエラルキーに組み込まれていることに気付くのである。


 人々のまなざしという点を強調した権力論を論じているのがM.フーコーである。R.ダールの有名な権力の定義によれば「AはBに対して、さもなければBがしなかったであろうことをさせうる程度において、権力を持つ」とされる。ここにおいてはあきらかにAとBという主体が想起されその関係の中で権力というものが存在するとされている。「権力の打倒」ということを考える古典的なマルクス主義においても抑圧者と被抑圧者という主体間の権力関係が明らかに存在している。
 このような主体間の関係としての権力というものにフーコーは異議を唱えたる。フーコーの議論の中では、権力は必ずしも明確な主体間関係という前提を必要とせず、それゆえにマルクス主義者の考えるように打倒し得るものではなく常に循環的に存在するものだとされている。このようなフーコーの権力論を特徴付けるもののひとつに視線というテーマがある。以下にこの視線という点から権力というものを考えつつ、その権力が主体間関係というものを必要としないということを考えてみたい。
 近代以前の時代において、権力は視られることによって維持されてきた。フランスの「太陽王」ルイ14世の生活が公開され、王妃の出産すらが公開されていたのは有名な話である。またギロチンなどの例に見られるように法の執行もまた公開され、それによって人々は権力というものを感じていたのである。このことは逆に言えば権力は視られることによって成立していたということができよう。このようなまなざしが逆転することになったのが近代であるということができよう。それまで視ていた人々は逆に権力によって管理され、監視されるようになっていくのである。近代国家の成立とともに、人々は戸籍などのデータによって管理されることになる。この管理によって人々はそれまでの権力を視るという視点から逆に権力によって見られる存在へと変化したのである。このような変化が典型的に見られるのが刑罰という問題である。先に述べたように、それまで刑罰は見られるということが前提となっていた。洋の東西を問わず、鞭打ち、火あぶり、ギロチンなどの処罰は公開で行われ、中には市中引き回しのように見られることそのものが刑罰となっている場合もあった。このような状態を大きく変えたのが近代以降の監獄の誕生である。監獄に犯罪者を収監しこれを監視し規律を与えるという近代以降の刑罰制度は明らかにそれまでのものとは大きく異なるものであった。それまで見られることを前提としてきた権力の行使としての刑罰は、監獄という制度の発達によりむしろその姿を人々の目から隠し逆に犯罪者に対して権力の側からの監視という視線を注ぐという形に大きく変化したということが言えよう。このような視線という視点に立って近代の権力関係を眺めるといくつかの点が見えてくるといえよう。ひとつはフーコーが有名なパノプティコンの例を挙げて示しているように権力の主体というものが必ずしも明確ではないということである。監視という物は一般的にはAがBを監視するという二者関係の間で成立するものであるが、近代世界の監視は必ずしもこのような二者関係を前提としない。なぜならばわれわれが監視されていると感じるとき常に「誰かが」我々を見ているとは限らず、またそれを我々が確かめる術もないからである。典型的な監視装置である、監視カメラというものを考えてみよう。今日さまざまな場所に監視カメラが設置され我々は常に監視されているということができるが、ではわれわれが監視されているというすべての瞬間に監視カメラの向こうには我々を監視している主体がいるのだろうか。答えはおそらく否であろう。監視カメラの映像はヴィデオに収められいつでも見ることは可能ではあるだろうが、モニターの前に誰かが24時間いるということは必ずしも言い切れないであろう。このことは監視という関係が必ずしも監視する主体がいなくても成り立つことを証明している。また現代世界においては例えどこかで監視を行っている人物がいたとしても彼または彼女は別の場所では監視される主体となるという点も重要である。例えば警備会社か何かでコンビニの防犯カメラを監視している人物もその給料をもらいにいくときには銀行において防犯カメラに監視されることになるわけである。このように視線という点から現代世界の権力というものを考えた場合、それが権力をもつものとそれによって抑圧されるものという風に分かれるのではなくむしろ権力が日常化しさまざまな主体関係の中で権力が発生するということがいえる。また、このような監視ということを考えた場合、何よりも考えなければならないのは被監視者が監視という視線に対して見返す視線を持たないということである。監視者という主体が多様化しまた場合によっては存在しない場合、監視されるものが監視するものを見返すという視線を持つことは非常に難しい。このことにより監視される人々は自分がいつ監視されているかわからず、結果として常に監視ということを前提として行動するようになる。このことによって監視という権力は存在をより強固なものにするのである。


 このような視線という視点から天皇制ナショナリズムを研究した好著がT.フジタニの「天皇のページェント」である。そこでは近代天皇制が天皇の身体を視覚的に隠し人々の想像によって補わせることによって時間的、空間的同一性をつくりだし、時間的、空間的には限られた存在でしかない天皇という一人の人間を国家統合の象徴とする過程が詳細に論じられている。しかしながらフジタニの著作はフーコーの議論を下敷きとしているがゆえに、見られる権力としての天皇制に対する評価が低いといえよう。天皇制を近代ナショナリズムとして理解するためには見られる権力としてではなく、見えない権力、見る権力としての存在が不可欠だからである。この点を指摘し巡幸という点から見られる権力への鋭い視点を提供しているのが原武史である。確かに原の指摘するとおり近代天皇制の「可視化された帝国」としての側面はいくら強調されても強調されすぎることはないであろう。しかしこのことはいくつかの留保条件がつけられねばならないであろう。ひとつは現在非常に安定しているとされる天皇制がその可視性によってのみ支えられているものではないということである。天皇がその可視性のみならずむしろ徐々に見えなくなることによって、人々の想像力によって補われることを通じてその存在がより安定するようになったということは一つ考えられねばならないであろう。すなわち天皇制はその可視性と不可視性を組み合わせることによって国民一人一人に対し強固な支配を行い得たのである。原の強調する通り、国民一人一人が存在として天皇を眺めることによってはじめて天皇制という支配体制に自己同一化し得たのであり、またフジタニの強調するとおり、天皇が見えなくなることによって人々は見られる権力のもとで生じる時間的・空間的なずれを想像力で補うことが出来天皇制はその権力をより強固なものとしたということが言えよう。見ることは想像することによって補われるのであり、また何ものも見ずに想像することは不可能である。可視性と不可視性は相互に補いあい、強固な権力をつくりだすのである。またそのこととも関係するが、B.アンダーソンが指摘しているとおり、国民国家そのものが実態として存在するのではなく、人々の想像によって存在しているということはやはり強調されねばならない。我々が何ものかを見ることによって国家を自覚することは必ずしも必然ではない。たとえそこに視るものがあってもそれによって感じるものは人それぞれである。視たものは見た人がその意味を想像することによって意味を持つ。視覚的支配は作り上げられたシステムによって人々を縛り上げているわけではなく、人々の想像によってその権力を強固にする。ナショナリズムは常に脆いものであり、またそれ故に常に煽られるものである。しかしながらそれは必然ではない。それは我々の内にありそれ故にのりこえられるものである。


参考文献

『可視化される帝国』 原武史 みすず書房
『権力』 杉田敦 岩波書店
『権力の系譜学』 杉田敦 岩波書店
『天皇のページェント』 T.フジタニ NHKブックス
『現代思想の冒険者たち26 フーコー』 桜井哲夫 講談社
『増補想像の共同体 B.アンダーソン』 NTT出版
『天皇の肖像』 多木浩二 岩波新書
『民族という名の宗教』 なだいなだ 岩波新書
『カルチュラル・スタディーズ』 吉見俊哉 岩波書店
『ポスト・コロニアル』 小森陽一 岩波書店
『ナショナリズム』 姜尚中 岩波書店

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