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スウェーデン社民主義の地平

はじめに ぼくのゼミ論の射程とこの文章の位置

 前回の発表でも触れたが、はじめにぼくのゼミ論が何を目的としているか、すなわちこの文章の動機は何かというところからはじめたい。ぼくは前回、以下のような文章をゼミ論の目的として書いている。「僕がゼミ論を通じて考えたいこと、それは「現代において存続可能な社会主義とはどのようなものか」ということである。昨今の世界の大勢が民主主義を共通の価値観として捉えていることから考えるに、このテーマは「社会主義は民主主義のもとで可能か」というように置き換える必要があろう。さらに換言すれば「社会民主主義とは何か」を考えることがこの僕のゼミ論全体の目的である。」ここで、「存続可能」というやや強い言葉を使っているのは、ソ連東欧圏の崩壊以降、社会主義もしくは社会民主主義は持続するかどうかという問い以前にそもそも生き残ることができるのか、ひとつの政治的選択肢として人々にとって魅力的なものとして存在しうるのか、というぼくの危機感といっても過言ではない問題意識に根ざしている。
 さて、社会民主主義とは何か、もしくは社会民主主義への道ということを考えるならば、そこには二つの道があるのではなかろうか。ひとつは民主主義体制下において社会(民主)主義政党が政権をとり、民主主義をいわば「社会化」する道程であり、もうひとつは今ではほとんどなくなってしまったが、社会主義体制を「民主化」する過程である。後者についてはそもそも社会主義体制はどの程度民主的であるのかという問いを考えねばならないし、その「民主化」とはどのようなことを意味するのか、そしてそれはいかにして可能かということを総合的に考える必要があろう。これはソヴィエト体制、ハンガリー動乱、プラハの春、ペレストロイカなどを素材として、次回以降考えていきたい。
 今回は前回に引き続き社会民主主義の側の可能性を考えてみたい。具体例としてはスウェーデンを取り上げる。ほぼ四分の三世紀にわたって政権を維持し「スウェーデン・モデル」といわれる独自の福祉国家体制をつくり上げてきたスウェーデン社会民主労働党の戦略と施策は非常にユニークであり示唆的である。それは社会主義という観点から見た場合でも意義深いものがあるし、とりわけ民主主義のもとでの社会主義はいかに可能かという問いにパイオニア的なひとつの答えを提供しているといえる。以下では、スウェーデン独自の社会的、歴史的条件を考慮に入れつつスウェーデンにおける社会民主主義の展開を論じてみたい。
もはや断るまでもないと思うが、ぼく自身はスウェーデンという国が大好きだし、思想的にも社会民主主義的な思想に共鳴する部分は多いが、そのことは以下における議論展開の価値中立性を損なうものではない(つもりである)。

とても手抜きなスウェーデン近代小史

 現代の発想でいくとスウェーデンというのはその充実した福祉国家というイメージともあいまって世界で最も進んだ先進工業国という印象を持つかもしれないが、19世紀までのスウェーデンはヨーロッパで最も遅れた農業国のひとつに過ぎなかった。現在からは想像も出来ないが一冬を越せるか越せないかというぎりぎりの生活をするような家族が多かったという。1860年から1930年までの間に人口500万人に満たない国が100万人もの移民を海外に出さざるを得なかったという数字が何よりもそのことを証明している。そんな貧しい農業国であったスウェーデンは19世紀後半から20世紀前半にかけて急激な工業化を開始することになる。海外からの新しいテクノロジーの導入や豊富な天然資源などに支えられた北欧の小国の工業化は急ピッチで進みイギリスやドイツのそれよりも速いテンポで進められた。それは当然にも国内のインフラ整備などを推し進めることになったが、同時に労働問題という新しい争点をこの国の政治にもちこんだ。スウェーデン初の労働組合の結成は1846年、これは未だ熟練工のギルド的な組合という性格が強かったが、1880年代にはデンマークから社会民主主義が持ち込まれ社民協会という組織もつくられている。この組織とおりから勃興しつつあった各地の労働組合組織が結集し1889年にスウェーデン社会民主労働者党が結成される。この生まれたばかりの社会主義政党のリーダーたちはのきなみ20代の若者でしめられていた。しかしながら、後に首相となるH.ブランティングを中心とする若きリーダー達は決して小さくはなかった党内の革命主義的行動論を押さえ平和主義、議会主義、改良主義を選択する。この若い人材の積極的登用と時として妥協をもいとわない改良主義的な性向は20世紀のスウェーデンをリードするこの政党をこののち長く特徴づけることになる。
 社民党結成から遅れること9年、1898年に経営側からの巨大な圧力に対抗するためスウェーデンの各労働組合は全国組織を立ち上げる。LOである。結成当初こそ寄合所帯的な正確のあったLOであるが、20世紀初頭には集権的な巨大な力を持つナショナルセンターへと変貌していく。さらには社民党の政権獲得後はその巨大な組織力と指導力で社民党長期政権を支える半・公的な機関へと成長していくことになる。
 LOの結成と前後して経営者側も中央組織を結成する。1902年に結成されたSAFスウェーデン経営者連盟である。このSAFがLOとともにスウェーデン独自のネオ・コーポラティズムの屋台骨をになうことになる。
 改良主義路線を選択したスウェーデン社民党の進出は目覚しいものがあった。1896年に初の社民党議員を第二院に送り出したのを皮切りに1914年には第二院における第一党の地位を確立1917年には政権参加、1920年には選挙による世界最初の社会主義単独政権を樹立する。この大躍進は社民党の現実主義的な路線の選択により国民の間に「社会主義」に対する不安を払拭できたこと、また自由党、農民同盟という二つの中道政党とのイデオロギー距離を縮小し連合政治を容易ならしめたことがあげられると思う。
 しかし初期の社民党政権は不安定であった。1920年代までの社民党首班内閣はどれも20ヶ月未満で崩壊している。しかし、世界恐慌とともに事態は一変する。1929年に始まった世界恐慌は当然にもスウェーデンをも襲った。大半のヨーロッパ諸国と同様に1930年代に入ってやや遅れて恐慌に直面したスウェーデンは恐慌の直撃を受けた。しかし、時の自由党主導の政権はアメリカのフーバー政権などと同様古典的な均衡財政政策を取る以外に方策を持たずなす術を知らなかった。これに対し社民党は積極的な財政政策を主張し、政権を獲得するや「スウェーデン・ニューディール」とも「ケインズなきケインズ主義」ともいわれる積極的な財政政策を展開し恐慌を乗り切ることに成功した(と言われている)。これによって国民の信任を得た社民党は以後44年間一貫して政権の座から社民政治を展開する。
 第二次世界大戦が勃発するとスウェーデンは中立を宣言するとともに挙国一致内閣を組織する。しかしその中立は非常にあやふやなものであった。ソ連軍に侵入された隣国フィンランドに対し「非交戦国」表明をする一方で義勇兵としてフィンランドを支援するスウェーデン人の活動を黙認したり、デンマークやノルウェーなど隣国がナチスドイツ軍に占領され軍事的圧迫が強まるとドイツ軍の国内通過を認めたりしたのはその一例である。しかし、まがりなりにもスウェーデンは二次大戦の全期間を通じて中立政策を維持することに成功する。戦争によって破壊されなかった中立国スウェーデンの工業力は戦後復興を行わなければならなかった国々に対して大きなアドヴァンテージとなった。
 戦後社民党は再び単独政権を組織する。社民党は1944年に戦後プログラムを公表する。それまでの1920年代に作られたプログラムはマルクス主義用語に満ち満ちた搾取理論と国有化を内容とするものであった(それは現実の社民党政権が実施したプラグマティックな政策と大きく乖離していた)が、1944年プログラムにおいて社民党は現実主義化を進行させる。国有化路線は完全に放棄され新たに「完全雇用」という概念が導入された。積極的な雇用政策の展開による完全雇用の実現、公正な分配と生活水準の向上、生産効率の向上と産業界におけるデモクラシーの推進がうたわれた。
 戦後のスウェーデン政治史はこの社民党のプログラムの計画経済的な要素に対する批判から始まった。容赦ない社民党批判によって野党第一党の地位を獲得した国民党(自由党)に対し、社民党は農民同盟とのいわゆる赤と緑の連合(常にフォーマルな連立という形をとったわけではなかったが)によって防戦する。このような政治状況の中で社民党は戦後改革をスタートさせる。まず急速な工業化が引き起こした都市への人口集中による住宅問題を改善するため、住宅ローンや住宅建設補助金制度の導入、家賃統制や、公的住宅の供給などが行われた。また教育の分野でも能力別クラス編成の廃止、学習過程の多様化、高等教育課程への補助の拡充などが行われた。勿論福祉サーヴィスが拡充されたことは言うまでもないが「必要度調査」を廃止し普遍主義的なサーヴィス提供を極度の累進課税によって財源を確保することによって実現したという点で画期的であった。
 1950年代に主要な争点となったのは付加年金問題であった。それまでに整備されていた基礎年金はとてもそれのみで人々の生活を維持できる額ではなく、労働者福祉を充実させたい社民党にとって付加年金はぜひとも実現したい政策であった。しかし、連立パートナーである、農民同盟にとって都市労働者の福祉のみにつながる付加年金制度は大きな問題ではなく同党は任意加入制度を唱えるにいたる。一方強制加入の制度にしたい社民党と財源問題も絡み野党をも巻き込んだ議論が展開された。結局三案を同時にレファレンダムにかけるという思い切った試みが実現されたが投票の結果どの案も過半数に及ばず国会では最終的に社民党案が成立することになったが赤と緑の連合は解消される。これ以後スウェーデン政治はブロック政治といわれる展開を見せることになる。すなわち、社民党と左(共産)党の社会主義ブロックと国民党(自由党)中央党(農民同盟が改称)そして保守政党の穏健統一党によるブルジョワブロックの対立という基本軸である。以後社民党は76年と91年の二度政権を失うが、常に第一党の地位を保持し続けスウェーデン政治をリードし続けている。

スウェーデン政党政治の座標

 サルトーリの分類に依拠すればスウェーデンの政党制は長らく一党優位体制であったといえよう。社民党は1932年以来44年間にわたり一貫して政権を確保しその後現在にいたるまでも二度ほど政権を失うことはあったが、常に第一党の座を保持し続けスウェーデン政党政治に不可欠なアクターとなっている。
 しかし社民党はその長い歴史の中で単独過半数に達したのは僅か二度しかなく、社民党政権は議席数が議会の40%強しかない相対多数政権であったために、スウェーデン政治はコンセンサス・ポリティクスと言われる妥協や合意に依拠した政治を社民党の改良主義的な党風ともあいまって展開することになる。この合意形成に特に重きを置く政治気質のようなものが社民党の改良主義、中道二党の中道志向とともに政党間のイデオロギー距離を縮小している。
 しかし基本的には、スウェーデン政治は先にあげたブロックポリティクスを中心に展開されている。すなわち、社民党と左(共産)党の社会主義ブロックと国民党(自由党)中央党(農民同盟が改称)そして保守政党の穏健統一党によるブルジョワブロックの対立という基本軸である。社民党は「自動的同盟軍」といわれる左党とのインフォーマルな連合によって、エネルギー政策や環境政策においては中道二党の協力も得つつ相対多数による政権を維持している(スウェーデンでは内閣不信任案が議会全議席の過半数の賛成を得ない限りは少数与党政権であっても存続が可能である。事実議会第四党のみの内閣が成立し存在した時期もある)。しかし、ブルジョワブロック内部においても財界などの支援を受けている保守政党である穏健統一党に対し中道政党を志向する国民党、中央党の二つの政党は一線を画す傾向にある。国民党は伝統的なリベラル政党であり、中央党は元々農民政党であるため、両党ともある時期には社民党と連立を組んでいたこともある。また、中央党は原子力問題においては左党と共通の主張を展開していたりもする。スウェーデン政治は基本的にブロック間政治とブルジョワブロック内における対立という二重の対立軸において展開されてきたといえる。
 1970年代後半からスウェーデン政治は大きな展開を見せる。1976年の選挙は二つの問題が争点となった。ひとつは原子力問題であり、もうひとつは労働者基金問題である。労働者基金とは、詳しくは後述するが、社民党内の左派が主張していたもので、労働組合から基金をつくりそれにより企業の株式を購入することによって企業経営における労働者の発言力を高めようとする構想である。これは企業家の経営権を奪うものだとしてブルジョワブロックの危機感を強め特に穏健統一党の勢力伸長を誘発した。また原子力問題においては中央党が原発の即時全廃を主張し大幅な勢力拡大を果たした。これによりブルジョワ三党は議会の過半数を制し連立内閣を発足させる。しかし特に原子力問題において財界の支持を得、少なくとも代替エネルギーの開発までは原発の稼動を行いたい穏健統一党と即時全廃を公約としていた中央党との折り合いが付かず三党連立政権は迷走を続ける(先述した議会第四党のみの政権が成立したのもこの時期である)。結局原子力問題については今ある原発は稼動させるが新たな建設は行わない、代替エネルギーを開発し2020年までには原発を全廃するという妥協が成立した。
 ブルジョワ政権は決して成功とは言い難かった(社民党は六年後の選挙において不評であった労働者基金を公約にしたにも拘わらず勝利、政権に復帰している)がいくつかのインパクトをスウェーデン政治に残した。ひとつはおりからの新保守主義、新自由主義の世界的潮流に乗った穏健統一党の進出である。スウェーデンにおいて福祉国家の解体をねらうサッチャリズムの人気はそれ程高くなく社民党は80年代を通じて政権を維持するが、しかし中道政党の後退と穏健統一党の進出は80年代以後のスウェーデン政治を特徴づけることになる。
 第二に中央党が原発問題において妥協したことにより環境問題という視点から同党を支持してきた人々が中央党を離れ新たに「環境党・緑」を結成したことである。当初こそ単独争点主義政党の感を免れなかった同党だがEC(EU)加盟反対を主張するなど徐々に左派的な主張を強めることによって支持を拡大し88年に「4%条項」(スウェーデンでは全国での得票率が4%を超えないと議席が配分されない)の壁を突破し議会に進出した。91年の選挙では議席を失ったものの94年に再び議席を回復ブロックポリティクスの枠外からスウェーデン政治に新たな風を吹き込んでいる。
 さらに90年代に入って以後中央党の支持基盤に食い込むような形のキリスト教民主社会党、そして移民排斥をとなえる新民主党が議会に進出するなどあらたな秩序がつくられつつある。

コーポラティズム

 シュミッターによればコーポラティズムの定義は以下のようなものになる。「コーポラティズムとは次のような一つの利益代表システムとして定義できる。すなわち、そのシステムでは、構成単位は、単一性、義務的加入、非競争性、階統的秩序、そして職能別の分化といった属性を持つ一定数のカテゴリーに組織されており、国家によって(創設されるのではないにしても)許可され承認され、さらに自己の指導者の選出や要求や支持の表明に対する一定の統制を認めることと交換に、個々のカテゴリー内での協議相手としての独占代表権を与えられるのである」。
 スウェーデンのコーポラティズム化を強力に推進することになったのがLOに結集する強力な労働組合である。90%以上という高い組織率と強力な集権的組織を維持するLOは社民党にとって重要なパートナーであるとともに、自身も経営者団体SAFとの間長い逃走と交渉の末に確固たる地位を築いている。社民党とLOとの関係は「社民党-LO複合体」ともいうべき密接な協力関係を築いており、ひとつの強力な権力主体となっているといえる。日常のありとあらゆる部分にこの両組織につながるものが関係しており、スウェーデンの日常生活に両組織はなくてはならないものとなっている。LOの巨大な組織力は社民党の第一党の地位を担保し福祉政策を展開させる上で不可欠なものとなっているが,社民党とLOの関係は片務的なものではなく交換的なものである。社民党はLOの組織力により政権の座を保持するかわりに完全雇用や労働環境の保全、福祉の拡充、富の公正な配分といった政策を遂行する。またLOの側でも労使の協調を重視し賃金の抑制や生産性の向上といった点では妥協ともいうべき協力体制を敷いている。スウェーデンの労使関係を象徴するものが「サルチオバーデンの精神」である。1938年にストックホルム郊外の保養地サルチオバーデンでLOとSAFの代表はひとつの合意に達した。そこでは統合的な団体交渉主義と労使関係を規定するルールが取り決められた。労使紛争は可能な限り「公然たる紛争手段に訴えることなく」解決される努力が要請されることになった。そこではLOとSAFの代表を含む労働市場協議会を設置して中央交渉・協議体として発足することが決められた。これによりスウェーデンの賃金交渉は頂上団体どうしによる自主的な交渉によって決定されることになった。これと「連帯賃金制」といわれる同一労働同一賃金体系の確立によりスウェーデンの労働市場は協調的色彩を強めている。
 しかし近年では中央交渉から離脱する組合が出、経営側もこれに応じようとする姿勢が出てきたため制度が岐路に立っているといえよう。

胎児から墓場まで

 スウェーデンは長期に渡る社民党政権の下で「胎児から墓場まで」と言われる徹底した高福祉政策を展開してきた。ここではその実績と批判を考えることによって福祉国家の可能性と限界を考えてみたい。
 スウェーデンの高福祉社会の基本的な考え方は戦間期から戦後にかけて首相を務めたP.ハンソンの提唱した「国民の家」という思想である。ハンソンは次のように述べている。「その社会は国家がよき父として市民の必要を包括的に規制・統制・調整する家の機能を演じる社会である。国民の家では誰も抑圧されることがない。そこでは助け合って生きるのであり、奪い合うということはない。また階級闘争ではなく、協調の精神が全ての人に安心と安全を与えるのである」。
 スウェーデンの福祉政策を列挙していたらきりがないのでほんの一部を挙げるに過ぎないことをお断りしておく。第一に高齢者福祉。スウェーデンでは寝たきり老人ゼロが基本である。しかしながら女性や若者の自立する率が高く社会もその後押しをするような制度ができあがっているのでスウェーデン人の家庭は核家族がほとんどである。そこで高齢者福祉センターが必要となるわけであるがその建設思想が大変面白い。スウェーデンの福祉施設は基本的に複合施設であり、日常生活のほとんど全てを施設内でまかなえるようになっている。すなわちベッドがただあるだけではなく商店やレストランなどが併設され高齢者もそこで日常生活を送れるようになっているのである。またこのような施設が住宅街や都市の真ん中にあるという点も象徴的である。福祉施設は一般に自由に公開されており、先述した施設を一般の人々も自由に使うことが出来る。そのような開かれた環境のなかで高齢者福祉を展開するとともに町のなかでも徹底したバリアフリー化が行われている点も強調せねばならない。年金システムもまたユニークである。スウェーデンの年金制度は現役時代の平均収入に比例して支給額が定められる方式となっていて、画一的な支給による社会の階層化も極端な平等主義による底辺階層へのスティグマ化も回避した公正なシステムとなっている。
 スウェーデンの労働環境は「天国に一番近い」という形容がされるほど恵まれている。週あたり労働時間や有給休暇などでも世界のトップクラスであるが、特筆したいのは幅広く保障された労働者の権利である。先ず様々な理由で労働を一時的に離脱する自由がある。企業は正当な理由のある欠勤を理由には労働者を解雇できないし、勤労時の90%の賃金を保障しなければならない。就職後最初の半年間はいわば試験期間であり、この間には企業側も解雇することが可能であるが、この期間が終わると、企業側は余程の理由がない限り労働者を解雇できない。福祉先進国らしく女性労働者の権利擁護にも熱心である。出産・育児休暇はもちろんのこと(ちなみに出産費用も無料である)妊娠中には負担の少ない部署に移動する権利も認められている。
 教育制度も非常に充実している。小学校から大学まで基本的に授業料は無料。学生の生活費も低利のローン制度がある。また自主的な学習サークルを国・コミューンが援助するシステムが整えられており、社民党、LO、教会などを中心に無数の学習サークルが運営されている。
 スウェーデンの教育制度は社民党・LOの労働政策と結びついて拡充されてきた点は強調されるべきであろう。スウェーデンの大学における学生の平均年齢はかなり高い。一度就職してから大学に入学したり、職業を得てから大学に入学したりする人が多いからである。こういうことが可能なのは、そのような選択肢が制度として存在するからであるが、教育に対する柔軟な姿勢こそ、社民党政権の労働政策を支える最も重要な柱であったといっても過言ではない。完全雇用と効率的な経済成長を両立させるのはなかなか難しい。完全雇用を維持するためには切り捨てられた非採算部門の労働者を迅速に再教育し労働市場に送り出す努力が必要となる。生涯教育はこのような問題に対する解決策のひとつとしても機能している。
 最後に在住外国人の問題についても触れておきたい。スウェーデンでは外国人は居住を開始するとスウェーデン人と同じ住民票コードが発行される。日本でも話題になった「背番号」である。意外に思われるかもしれないがスウェーデンでは住民総背番号制を導入している。日本のように管理社会につながるという批判もあったがこの在住外国人問題に顕著なようにサーヴィスの平等化を進めるという観点から賛成する議論も多い。またスウェーデン国内において働く在住外国人は同じ労働をするスウェーデン人と同一の給与が保障されている。そして特筆すべきことは彼らのスウェーデン語教育は全て無料であると同時に彼らの母国語の教育も無料で行われている。スウェーデンの在住外国人に対する基本的な考え方は「平等」「選択の自由」「協働」である。その思想がはっきりと表れたのがこの言語教育であろう。

福祉国家というイデオロギー

 福祉国家の危機が叫ばれて久しい。スウェーデンのみに限らず税負担の増大(スウェーデンの消費税が25%という高率なのは有名である)、パブリックセクターの巨大化労働意欲の減退、企業の国際競争力の低下などがいわれている。これらの批判は事実としてはその通りであり、改善されるべき点があるのもその通りであろう。しかしながら新自由主義もしくはサッチャリズムといわれるようないわゆる「右」からの批判は国家が福祉を担うという原則そのものを変えるに至らなかったという点において、むしろ福祉国家の不可逆性を示したものと言えよう。その方法手段における議論をつくることは出来たとしても。このことはイギリスで労働党が政権に復帰し得たこと、スウェーデンにおいても91年の敗北の後、社民党が復調し02年の選挙では高福祉、高負担を唱えて勝利したという事実が証明しているように思われる(スウェーデンにおいてはほとんどの国民が完全雇用と高福祉はあらゆるリスクを払ってでも守るべきと考えているという調査もあるらしい)。すなわち新自由主義が提起した問題とは国家が福祉を行うか否かという争点ではなく誰が何に応じて国家からの福祉を受けるべきなのかという議論であったと言えよう。
 福祉国家をめぐるより重要な争点は緑の党などの誕生が提起したより根本的なイデオロギー上の争点であるように思う。戦後の福祉国家の最大の目標は単なる高福祉や完全雇用ではなく、その効率的な経済成長との両立であったということが出来よう。その意味において戦後の福祉国家では原発や環境問題と言ったテーマが政治争点化しにくかったのである。すなわち成長と福祉の両立ではなく成長よりも重要なものとして環境や福祉を追求すべきという議論が提起するものである。これは各国における緑の党と社民党の間の溝であろうし、社会民主主義や福祉国家が対応しなければならないテーマではなかろうか。エスピン-アンデルセンの好著のタイトルがいうとおり福祉国家とは福祉資本主義に他ならないとすればそこからの舵取りこそ福祉国家の危機という言葉にふさわしくはなかろうか。

あとがき

 当初の構想ではスウェーデンの現状を考えた上で福祉国家論を展開したかったのだが諸事情により全く意味不明な文章がこねあがってしまった。概して日本語になっていない部分が多く、議論にすらなっていないという自覚は十分にあります。ゼミ発表の時間的制約から解放されたのできちんと書き直してから公表するべきでしょうが、とりあえずアップします。このHPを見てくれる方々にスウェーデンについて少しでも関心を持っていただければこれに勝る喜びはありません。近いうちにリライトしたものもアップしたいです。

参考文献

岡沢憲芙『スウェーデン現代政治』東大出版会
岡沢憲芙『スウェーデンを検証する』早稲田大学出版部
岡沢憲芙・奥島孝康編『スウェーデンの政治』早稲田大学出版部
スティーグ・ハデニウス 岡沢憲芙監訳『スウェーデン現代政治史』早稲田大学出版部
岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』岩波新書
宮本太郎『福祉国家という戦略』法律文化社
山口定『政治体制』東大出版会
シュミッター/レームブルッフ編 山口定監訳『現代コーポラティズム(1)』木鐸社
エスピン-アンデルセン 岡沢憲芙・宮本太郎監訳『福祉資本主義の三つの世界』ミネルヴァ書房
中嶋瑞枝「スウェーデンの環境党・緑」外務省調査月報2002/No.1
外務省HP「最近のスウェーデン情勢と日本・スウェーデン関係」2003年4月
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sweden/kankei.html

2003年4月26日


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