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ドイツ社会民主党と日本社会党

You may say I’m a dreamer
but I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
and the world will live as one
(John Lennon)

Ⅰ.はじめに ―動機もしくは問題設定―

 はじめに僕のゼミ論の目的を説明したいと思う。僕がゼミ論を通じて考えたいこと、それは「現代において存続可能な社会主義とはどのようなものか」ということである。昨今の世界の大勢が民主主義を共通の価値観として捉えていることから考えるに、このテーマは「社会主義は民主主義のもとで可能か」というように置き換える必要があろう。さらに換言すれば「社会民主主義とは何か」を考えることがこの僕のゼミ論全体の目的である。
 このことは現代的な社会主義を考えるという点だけではなく民主主義体制そのものを考える際にも大きなウエイトを占めることであろう。世界的な潮流となりつつある、ネオ・リベラリズムに対するオルタナティヴを提示することが、現代の民主主義にとって急務であると思うからである。民主主義が「大衆を獲得するためのエリート間の競争」であるならば自由民主主義と競争を行うようなモデルが提示される必要があると思う。
 とりわけこのことを日本において考える場合、自由民主主義に対抗する軸の存在がないことは日本のデモクラシーを考える上で憂慮すべきことではないだろうか。現代デモクラシーの三つの潮流(自由民主主義、キリスト教民主主義、社会民主主義)のうちキリスト教民主主義が日本に根付くことはおそらくないであろう。と、するならば自由民主党に対抗するひとつの軸として描かれるべきは社会民主主義であるように思われる。しかし実際には社会民主主義政党、日本社会党は一と二分の一政党制と揶揄されついに第一党の座を得ることなく消滅してしまった。日本においてなぜ社会民主主義が根付かなかったのか。安保闘争に見られるような大衆運動の歴史を見るにつけ、社会党が政権の座にいたらなかったことは僕にとって大きな疑問であった。この疑問こそが僕のゼミ論の全動機であり、またこの文章のテーマである。しかし過去のものとなってしまった社会党にただ難癖を付けたところでしょうがないので、ここでは敗戦国や巨大な保守党との対立、マルクス主義の影響など似たような歴史的、社会的条件を持つドイツ社会民主党と比較するということを試みてみたい。
 なおあらかじめ断っておくが、僕自身はかつての日本社会党の主張にシンパシーを感じているがそのことと以下での議論展開には無関係なつもりである。

Ⅱ.バート・ゴーデスベルク  ―ドイツ社会民主主義の地平―

1. はじめに

 9.11同時多発テロを口実にしたアメリカ合衆国政府による「対テロ戦争」は、本来の目的であったはずのオサマ・ビン・ラディンの捕捉はどこへやら、無目的に全世界へ拡大する様相を見せている。テロ支援国家という大義名分の下に「悪の枢軸」への非難を強めつつある米国ブッシュ政権はいよいよブッシュ家の宿敵、サダム・フセイン大統領の治めるイラクへの攻撃へ邁進しつつある。このような状況下にありながら現職の国務大臣がブッシュ政権の手法を「ヒットラーの手法」と非難したシュレーダー首相率いるドイツ社会民主党の総選挙における勝利は世界中の平和を願う全ての人々に一時の安らぎを与えるものであろう。もちろんシュレーダー首相の風見鶏的な態度など手放しで評価できることだけではないことは確かだが、ドイツ国民が戦争ではなく平和を選択したことも確かである。そしてドイツ国民のその選択を担いうる勢力がドイツには存在しているということは何よりも大きな事実であろう。翻って我が国の現状を眺めてみるならばあまりにお寒い状況と言わざるを得ない。平和を求める声は四分五裂しとても何らかのメッセージを発しているとは言い難い。このことは戦後日本の革新勢力を代表してきた日本社会党が社会民主党という小政党に転落していることからも明白であろう。ともにファシズムと呼ばれる体制、敗戦、戦後復興という歴史をたどった彼我の差はどこから生まれたのであろうか。もちろん多くの相違点がそこでは指摘されねばならないが、ここではドイツ社会民主党を大きく変革したゴーデスベルク綱領をその思想的歴史的背景とともに研究することを通じて、ドイツにおいて社会民主主義がいかに現実的なものとなったのかを見ていきたい。そしてそのことによって両国における平和勢力の差異を考えるきっかけにしていきたい。
 なおこの節の記述はそのほとんどを仲井斌著『西ドイツの社会民主主義』に負っていることをあらかじめ断っておく。

2.ラッサールとマルクス

 ドイツ社会民主党というと、現在日本に存在する同名の政党のようなイメージを持つ人が多いかもしれない。しかし実際はどうなのであろうか。まずは同党の思想的歴史的背景を探ってみたい。
 1863年5月ライプチヒにおいて全ドイツ労働者協会がフェルディナント・ラッサールによって設立された。また1869年8月、アイゼナハにおいて社会民主労働者党がアウグスト・ベーベル、ヴィルヘルム・リープクネヒトらによって設立された。初期のドイツ労働者運動においては前者に代表されるラッサール主義と後者に代表されるマルクス主義の二つの潮流があった。この二つの潮流は1875年5月ゴータにおいて合流しドイツ社会主義労働者党を設立する。そのラッサール主義的な綱領に対する批判としてマルクスの「ゴータ綱領批判」が書かれるわけであるが、ここでこの二つの潮流の思想というものを考えておく必要があろう。マルクスの思想は有名であり、多言を要しないと思うがとりわけラッサール主義との比較でいうならば、それは生産力の発展が生産関係を必然的に変えていくとする下部構造を重視した唯物論的決定論と言うことができよう。一方ラッサールにおいては「意識」というものが強調される。また国家を支配階級の搾取の手段として否定的に捉えたマルクスと違い、労働者の政治参加、普通選挙の実現といった、労働者の国家への参加によって労働者の解放が実現されるとした点もラッサール主義の重要な点である。しかしながら両派ともに「労働者階級の解放」を唱えた点で共通しているということが出来よう。
 さて1891年エアフルトにおいて開かれた大会において「社会民主党」という党名が決定されるとともにマルクス主義的な色彩の強い、エアフルト綱領が採択される。この綱領によってマルクス主義理論はドイツ社会民主党の基本路線となる。またこの頃までには帝国議会選挙で第一党となりヨーロッパ最大の組織率を誇る社会民主党組織が強固なものとなっていることも指摘しておこう。
 しかし、このヨーロッパ最大の社会主義政党はそのマルクス主義的理論故にこの後苦しむこととなる。マルクス主義的、決定論的綱領は実践において必要とされる改良主義的な運動と乖離し、理論と実践の二元性は大きな影をドイツ社会民主党に落としていく。
 この乖離を示すのがベルンシュタインの名に代表される、修正主義論争である。ベルンシュタインの主張は多岐に渡るがここではその一部を述べるにとどめる。ベルンシュタインは亡命先のイギリスにおける経験主義に影響を受け、下部構造の役割を和らげ決定論、待機論を廃し行動主義を提唱した。社会主義は「科学」や「必然」ではなく労働者の「意志」や「行動」によって実現されるとベルンシュタインは説いた。そこには現実に即した資本主義の必然的崩壊やプロレタリアの絶対的貧困化に対する懐疑があった。また国家が支配階級による搾取機関であるとする考え方に挑戦し国家の性格を労働者階級が変革しうる可能性を強調した。この考え方はマルクスとラッサールの止揚を目指したものであるということが出来よう。この修正主義は党内主流派の抵抗により主流とはなり得なかったがラッサール主義や修正主義の伝統が後のドイツ社会民主党の転換にもたらした影響は大きい。

3.ワイマール共和国

 しばしばいわれることではあるが、第一次世界大戦の要因として社会主義インターの崩壊があげられる。本来的に国家を支配階級による搾取機関とする社会主義者にとって国家間で行われる戦争とは絶対に反対するべきものであった。しかし一次大戦前夜の国家間の緊張はそのような社会主義者達でさえをもナショナリズムへと回収してしまったのである。ドイツにおいてもまた、ナショナリズムという幽霊が社会主義の行く手をふさいでいた。しかしながら、全ての社会主義が戦争とナショナリズムに肯んじたわけではない。戦争へと突き進むドイツ帝国の現実を前にして社会民主党は分裂し、多数派は戦争に協力する姿勢を示したが、戦争に反対する人々は独立社会民主党を結成することになる。この政党は様々な考えを持つ人が平和主義の一点において共闘した政党であったが、戦争終結とともにローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトといった人々がその内部からスパルタクス団、そしてそれを発展させた共産党をつくりだしていく。
 ドイツ社会民主党は失敗に終わったドイツ革命の後、ワイマール共和国を成立させる上で主導的な役割を演じる。こうしてドイツ史上はじめて成立した社会民主党政権はヴェルサイユ条約や大不況といった様々な政治的状況に対し、有効な対応を示せず、再び野党の地へと安住していく。このような社会民主党の消極的な姿勢がナチスと共産党の台頭を招きヒトラー政権の成立を許してしまったことは指摘されねばならない事実であり、また後に社会民主党が左派国民政党へと変身する際の大きな理由となったことは示唆的である。この時期を積極的なケインズ主義政策によって世界恐慌を乗り切り以後40年間政権を担当したスウェーデン社会民主労働党とは対応的であって興味深い。
 ナチス政権の成立後、社会民主党は非合法化される。主要な指導者は亡命するか投獄され、強制収容所送りとなった人物も多かった。戦後党の再建過程で東側、ソ連支配地域の社会民主党は共産党と合同し社会主義統一党となって、スターリン主義の党へと変質していく。一方西側の社会民主党は、マルクス主義的な党綱領と実践との乖離に苦しみつつ、コンラッド・アデナウアー率いるキリスト教・民主・社会同盟の西側よりの路線に反対し、祖国統一や、生産手段の国有化などを訴えていく。しかし、「奇蹟の復興」とよばれたアデナウアーの経済運営と東側の現実とのギャップを見るにつけ社会民主党の政策は必ずしも魅力のあるものではなかった。

4.ゴーデスベルク綱領

 このような社会民主党の路線を大きく方向転換させたものが1959年ボンのバード・ゴーデスベルク臨時党大会で決議されたゴーデスベルク綱領である。この綱領はしばしば指摘されるようなマルクス主義との絶縁の綱領ではない。それは政治的多元主義、もしくは複数主義を認めた綱領に他ならない。以下その概要を見ていこう。
 ゴーデスベルク綱領は三つの妥協を宣言する。第一に国家との、第二に国防軍との、そして第三にキリスト教との妥協である。ゴーデスベルク綱領の精神は四つの柱からなっていると言える。第一の柱は国家への参加である。そこでは国家を死滅させるのではなく、国家への参加によって国家の改革と発展を目指す旨がうたわれている。それはひとつにはラッサール主義の復活でもあり、またマルクス主義と現実との矛盾の解消でもあった。第二の柱は政治的多元主義である。しかしながらそれは単純なるマルクス主義との決別を意味しはしない。マルクス主義は常にドイツ社会民主党の中で合法的であり、またあり続けるであろう。ゴーデスベルク綱領において否定されたのは唯一の協議を信奉するソ連・東欧型のマルクスレーニン主義であり、いろいろな思想の共存を認める複数主義的なマルクス主義が否定されたものではない。「社会主義は民主主義によってのみ実現され、民主主義は社会主義によって達成される」(永井清彦編「われわれの望むもの―西ドイツ社会民主党新綱領」15p)ということばは示唆的であろう。第三の柱は国防軍、そしてカトリック教会との妥協である。「ドイツ社会民主党は国防を肯定する」(同18p)としたゴーデスベルク綱領によって社会民主党の政権担当能力は高まったということは指摘できよう。またキリスト教との妥協によってドイツ社会民主党は支持基盤を拡大し、政権への道を開いたということが出来よう。
 そして第四の柱は社会主義=計画というテーゼからの脱却である。競争や経済的自由といったものを大幅に認めることによって社会民主党は大きな転換を図ったと言えよう。もちろん社会化への配慮が全く示されなかったわけではないが、しかし社会民主党が大きく方針を転換したことは確かであろう。
 このようなゴーデスベルク綱領の示した転換はなにを意味するのだろうか。もちろん社会民主党がこの綱領に示される方針転換によって1969年にブラント政権を実現し積極的な東方外交を展開したこと、そしてその成功によって社会民主党政権をその後12年間も運営したことなどがあげられるであろう。そして何よりも社会民主党の階級政党から左派国民政党への脱却はユーロコミュニズムといわれる各国の共産党をはじめ様々な影響を及ぼした。しかし何よりも重要なのは社会民主党が自らの意志によって方針を転換し国民政党へと脱却したことである。これは戦後40年マルクス主義に固執し野党の地に安住し続けた日本社会党と対比するとききわめて明瞭に指摘できよう。自らの意志によって行動することによって歴史は変わるのである。

Ⅲ.日本社会党とドイツ社会民主党

1. 支持基盤もしくは自己規定

 しばしば指摘されるようにドイツ社会民主党はゴーデスベルク綱領以後包括政党(catch-all-party)となったといわれる。労働者の階級政党であることをやめ全ての国民に開かれた国民政党となったのである。これは先進国で顕著に見られるブルーカラー労働者の減少という現象に対応したものであるということが言えよう。ドイツ社会民主党は労働組合に組織された労働者の支援のみに頼ることをやめたのであり、ホワイトカラーの人々や学生へとその支持基盤を広げていった。キッチェルトのいう左翼リバタリアン的政治(真柄秀子・井戸正伸「比較政治学」155-157p)の典型例であるということが言えよう。ただし、実際にはその党勢拡大期にドイツ社会民主党は直線的に支持者を増やしており労働者のほとんどの支持をつなぎ止めていたと見ることが出来る。共同決定制度の拡大をなどの政策で伝統的な支持基盤である労働者の支持を固めた上でその外側へと支持を拡大していったと見ることが出来よう。(中木康夫・河合秀和・山口定「現代西ヨーロッパ政治史」293p)
 一方日本社会党はどうであったか。自己を「階級的大衆政党」と規定していた社会党はまた、その支持基盤である日本最大の労働組合総評の人的、物的支援なしにはやっていけないような政党であった。社会党の党員数はほぼ5万人程度であり、百万人単位の規模を誇る西欧の左派政党とは比べものにならないほど弱い組織であったということが出来よう。1960年の安保闘争のような決定的な場面において、社会党が院外大衆闘争を全く組織し得ず、総評や学生組織などに引きずられる形での闘争しかなしえなかったという事実は何よりも雄弁に社会党の組織の脆弱さを物語っている。このような組織面での弱さはイデオロギー的な面における社会党の総評依存を強め、労働者階級の政党としての立場に社会党は安住することとなってしまう。(原彬久「戦後史の中の日本社会党」162p)

2. マルクス主義との距離

 ドイツ社会民主党はマルクス主義政党であった。こう書くと驚かれる向きもあるかもしれないがこれは一面において事実である。ドイツ社会民主党はその創設時から主要メンバーにマルクス主義者を擁していたし、その綱領は、濃淡はあれ、マルクス主義的色彩を有していた。ただし一方において、同党が社会民主主義政党であったということも見落としてはならない事実であろう。同党の主流派はマルクス主義を信奉しつつもロシア流の「プロレタリア独裁」とは一線を画していた。ロシア革命に際し同党長老のカール・カウツキーとレーニン・トロツキーとの間で行われた論争は有名である。しかしながらマルクス主義理論と実践との乖離は常に大きな問題としてのしかかっていた。国家が支配階級による搾取の手段であるとするマルクス主義のテーゼに従えば国政に参加して社会を改良するという手段に訴えることは間違いであり、恐慌は資本主義を崩壊へと導くものであるため有効な対策もなくまた打つべきではなく、出来ることは反対のみということになる。またそこにおいても資本主義は必然的に崩壊し社会主義の世の中がやってくるということになっているため「来るべき社会主義社会に向けて勢力を温存すべし」という待機主義に陥りがちであった(これがヒトラーの台頭を招いた要因のひとつとなる)。また何よりの問題はマルクス主義者にとってマルクス主義は科学的であり、唯一正しい理論であるということである。そこにおいては多元主義的なデモクラシーが受け入れられる可能性は低いといわざるを得ない。もちろん民主主義的な価値観を重視する立場も可能ではあるがそれは手段としての民主主義であって目的として、もしくは絶対的な価値としてのそれではないのである。
 このような事態を打開したのがゴーデスベルク綱領である。同綱領は「社会主義は民主主義を通じてのみ実現され、民主主義は社会主義を通じて達成される」(永井清彦編「われわれの望むもの―西ドイツ社会民主党新綱領」15p)と述べて民主主義に大きな重点を置くとともに「ドイツ社会民主党は精神の自由の政党である。それは、さまざまな思想信条を持つ人々の共同体である。」(同14p)と宣言することによって政治的な多元主義を肯定した。しかしながらこのことは、マルクス主義からの決別を意味することではない。そこにおいて否定されたのは唯一絶対のマルクス主義という思想でありマルクス主義そのものではない。政治的な多元主義を受け入れる限りマルクス主義者もまたドイツ社会民主党員である。(仲井斌「西ドイツの社会民主主義」40-45p)
 一方日本社会党においてこのような路線転換はついに見られなかった。そもそも左右に分かれていた社会党が1955年に合同した際右社67に対し左社89とすでに左派有利な状況でスタートした社会党は民社党、社民連という二度の右派の離党により左派的な方向へと純化していった。また60年代を通じて党内のマルクス主義理論集団「社会主義協会」が一般党員の間で影響力を拡大しついには執行部の選出に決定的な力を持つようになったということも影響している。このような社会党の左派的、マルクス主義的な傾向を強くあらわしているのが66年の27回党大会で採択された綱領補完文書「日本における社会主義への道」であった。そこでは「保革対立」がブルジョワジーとプロレタリアートの階級対立として理解され、福祉国家が「資本の延命策」として否定されている。また議会制民主主義をブルジョワ権力支配の道具から社会主義者の「解放の武器」とすることが重要であるとされている(原彬久「戦後史の中の日本社会党」196p)。実際多くの社会党綱領には「議会主義」に埋没することなく「院外大衆闘争」を重視する旨がうたわれているが、このような同党の教条的なマルクス主義路線は本来その支持者となるべき「左翼リバタリアン」を組織化する際に大きな障害となったと言えよう。またこれは僕自身の仮説であるが教条的なマルクス主義はマルクス主義者そのものの組織化をも不可能にする。マルクス主義はその思想において唯一絶対に正しいと自己規定する。そのようなマルクス主義は本来的に分派の存在を不可能にする。唯一絶対に正しいマルクス主義が二つ以上あるはずがないからである。このためマルクス主義政党は常に一枚岩的である必要があり、異端は常に党外に追放されねばならない。レーニンが分派を禁止したのもけだし当然である。教条的マルクス主義は非マルクス主義者のみならずマルクス主義者そのものの組織化をも妨げるのである。ドイツ社会民主党において党内左派に位置したJUSO(Jungsozialisten:青年社会主義者)がそのマルクス主義的な色彩の強い独自の理論にも関わらず党員としての立場を維持しえたのはドイツ社会民主党がその複数主義、多元主義的な原則を貫いたからである。

3. 外交・安全保障政策

 日本社会党の外交・安全保障政策といえば非武装中立論である。これは一言で言うならば「軍事力によらず、いかなる国とも軍事同盟を締結せず、あらゆる国々と友好的な環境を確立するなかで、攻めるとか攻められるとかいうような心配のない環境をつくり出し国の安全を確保しよう」(石橋政嗣「非武装中立論」69p)という考え方ということが出来よう。個人的には大賛成の議論である。勢力均衡論や相互抑止論に見られるような脅しやその裏返しである恐怖に基づかない真の意味での平和がそこには存在しているように思える。しかしながら時代は米ソ冷戦のさなかである。朝鮮半島には「軍事境界線」が引かれ日本とソ連との間には、平和条約は結ばれていない。たとえどんなに議論として正しく納得できるものであったとしても「降伏した方がよい場合もある」(同)とするような非武装中立論は説得力のある議論とはなり得ないであろう。もちろん非武装中立論が一定の支持を集め社会党の支持確保に一役買っていたことは事実である。しかし政権獲得ということを視野に入れるならば一定以上の支持を望み得ない非武装中立は政策として失敗であったと言えよう。当時実際に必要であったのは社会党が政権を執って平和的な外交政策を実現すること(ソ連と平和条約を結ぶことや、北朝鮮を承認すること米軍基地を整理縮小することなど)であったはずなのに非武装中立を「目的」として追求してしまったために社会党が極東の平和に貢献するということはついに起こらなかった。また非武装中立といいながらもアメリカ=資本主義=戦争勢力、ソ連=社会主義=平和勢力という二元論のもと、ソ連は平和勢力であり、社会主義陣営からの脅威などというものは存在しないとするいわゆる平和勢力論に基づいた議論でしかなかったということも考慮される必要があろう。(原彬久「戦後史の中の日本社会党」207p)
 西ドイツの場合は随分状況が異なる。実際に東西冷戦のなかで国を分割されてしまった西ドイツでは日本以上に社会主義に脅威が現実のものとして語られていた。そのようななかでドイツ社会民主党は再建以来ドイツ統一を最優先の外交目標に掲げてきた。連合国による武装解除、NATOへの加盟と再軍備という日本と似たようなプロセスをたどった再軍備問題に関しても西ドイツの再軍備は西側陣営への依存を強めドイツの統一を難しくするという立場から反対の意思を表明していた。1950年代を通じてドグマ化しつつあったこの平和路線もまたゴーデスベルク綱領によって一大転換を図ることになる。同綱領によれば「ドイツ社会民主党は自由で民主的な基本秩序の防衛を支持する。党は国防を肯定する」(永井清彦編「われわれの望むもの―西ドイツ社会民主党新綱領」18p)となっている。この国防の肯定は当時の与党キリスト教民主・社会同盟との「共通の外交」を保障し外交政策の連続性を担保するものであった。この方針転換によってドイツ社会民主党はその安全保障政策における国民の不安を払拭し政権党へ一歩近づくこととなる。(佐瀬昌盛「戦後ドイツ社会民主党史」106-118p)
 政権党となった社会民主党はヴィリー・ブラント首相による東方外交を実現することになる。それまでの西ドイツの基本的な外交方針は「ひとつのドイツ」という建前のもと東ドイツと国交のある国(要は東側陣営の国々)とは国交を結ばない、もしくは断絶するという「ハルシュタイン・ドクトリン」であった。この基本方針を大胆に変更した東方外交は三つの柱からなっている。第一に武力放棄主義の原則、第二に現状の国境線の承認、第三に東西ドイツの対等な関係の保障である。この基本方針のもとソ連との間のモスクワ条約、ポーランドとの間のワルシャワ条約、東ドイツとの間の独独基本条約が結ばれた。これはちょうど進行しつつあった両陣営間のデタントの動きと連動し、ヨーロッパの安全保障体制に画期的な転換をもたらした。またブラント首相がワルシャワ訪問の折りに旧ユダヤ人ゲットーの記念碑の前で跪いたことはドイツ国内外の多くの人々に感銘と共感をもたらした。(仲井斌「西ドイツの社会民主主義」53-61p)
 日本社会党がもし同じことを行っていれば…、と思うのは僕だけであろうか。歴史にifはないがもし社会党が柔軟路線に転じ政権を執り北朝鮮との緊張緩和を図っていれば拉致事件は起きなかったかもしれないなどとつい考えてしまう。

4. 経済政策

 戦後西ドイツの福祉国家体制は社会民主党によってつくられたわけではない。コンラッド・アデナウアー率いるキリスト教民主・社会同盟が経済復興をめざし、キリスト教社会主義の影響を受けて作り上げたものである。同党は「経済の奇跡」のシンボルとなったエアハルト経済相に代表されるような自由主義的な「社会的市場経済」といわれる経済運営を進める一方で「社会的住宅建設」(そのために住宅建設省までがつくられた)や社会保障制度の大幅な拡充(労働者年金の支給額において65%の増額となった)、石炭産業における共同決定制度の導入などの福祉国家建設が押し進められた。
 一方社会民主党の経済政策は「社会化=社会主義」という「信仰」に基づいた主要産業の国有化と計画経済の導入であった。しかしながらこの政策は東ドイツという計画経済の実態を知っている西ドイツ国民のなかで多数派を形成し得るはずがなかった。ゴーデスベルク綱領はこの点にも大きなメスを入れる。そこでは「可能な限りの競争を―必要な限りの計画を!」とうたわれ「さまざまな措置が必要」という条件付きながら「自由市場を肯定」している(永井清彦編「われわれの望むもの―西ドイツ社会民主党新綱領」21p)。この自由市場の肯定が国防の肯定とともに社会民主党のイメージに与えた影響は大きい。実現不可能な政策しか持たない「何でも反対」の政党から現政権の政策との連続性を保障しながら実行可能なオルタナティヴを提示する「政権政党」へと社会民主党は大きな変貌を遂げた。
 実際政権に就いた社会民主党はさまざまな改革を実行に移す。キリスト教民主・社会同盟との大連立においてケインズ主義的な経済政策を実施して不況を乗り切ったのを皮切りに、退職年限の引き下げや年休の増大、労働時間の短縮や病欠時の賃金支払いの保障、等々さまざまな福祉拡充策を打ち出し、機会均等を目指す大幅な教育改革や共同決定性どの拡大などを行った。(中木康夫・河合秀和・山口定「現代西ヨーロッパ政治史」303-306p)
 一方日本社会党はといえば、福祉国家を否定しソヴィエト型社会主義を標榜した「日本における社会主義への道」路線から抜け出すことが出来ずにいた。また55年体制の崩壊のなかで政権への参加を選択した社会党が現実への妥協を繰り返すなかで自らの党首を首班とするような内閣においてすら独自性を出し得なかったのは我々の記憶に新しい。(山口二郎「現代日本の政治変動」50-53p)

Ⅳ.野党という安住の地

 では日本社会党にはドイツ社会民主党のような変身を遂げる機会はなかったのだろうか。実はあったのである。いや、むしろ常にあったとすら言える。日本社会党の歴史とはいわゆる改良主義への転換を拒否し続けた歴史ということすら出来よう。左派優位であった社会党の党内情勢は常にイデオロギー偏重のそしりを免れ得ない党運営しか許さなかった。例えば社会党右派の巨頭であった西尾末広は安保改訂に先立ち「安保条約の『解消』のためには、これに変わる安全保障体制とそこに至る道筋を明確にすること」を記者会見で強調している。これに対し書記長浅沼稲次郎が「安保改定案を社会党自らが持つ必要はない」として「改定阻止一本」に全力を傾注すべきことを訴え、左派の西尾除名への動きが活発化し西尾派の脱党、民社党結成へと至った。(原彬久「戦後史の中の日本社会党」140p)ここに見られるのは「何でも反対」というイメージそのものの社会党の姿であるが、問題は社会党自身がそのような姿勢に満足していたことである。確かに野党が政府の方針に反対するときなぜノーというかを説明することは必要であっても、代案を示す必要はない。しかし選挙ということを考えるならば「なぜ反対か」を唱えるだけの政党が勝利できるはずがない。反対は賛成の裏返しでしかなく反対を叫ぶということはすでに野党の地位に甘んずることを認めているような行為でしかない。そこには自党が野党という反対するための政党という地位に安住している社会党の姿があるのである。別の例を挙げよう。70年代を通じて社会党を揺るがした「構革」論争である。「構革」とは「構造改革」のことである。昨今大流行中のこの言葉であるが、当時は今とは全く違う文脈で使われていた。言葉に即していえば資本主義の「構造」の中に労働者が介入し、それを内側から「改革」していこうとする主張である。急激な社会変革ではなく改良によって社会主義を実現しようとするこの考え方は元来イタリア共産党のトリアッティらによって提唱されたものである。この構造改革路線とそれを提唱した江田三郎のいわゆる「江田ビジョン」(「米国の平均した生活水準の高さ」、「ソ連の徹底した社会保障」、「英国の議会制民主主義」、「日本の平和憲法」を「総合調整して進むときに、大衆と結んだ社会主義が生まれる」)は党内左派から「現資本主義体制の是認につながる」として厳しい批判を受け、自民党顔負けの激しい派閥党争の結果江田は社会党を離党し社民連を結成する。(原彬久「戦後史の中の日本社会党」182-196p)ここで指摘されねばならないのはイデオロギー偏重的な社会党の体質だけでなく、党内派閥力学に雁字搦めになり、そこから抜け出せないでいる社会党の姿である。このことをよりよく物語るのが自衛隊に関する議論である。80年代に入り社会党は政権のとれる党への脱皮を目指し徐々に変化を始める。そこで問題となるのが「党是」とも言える非武装中立論との関係における自衛隊の扱いであった。もともと社会党は自衛隊は違憲だという立場から、自衛隊の存在そのものを認めない立場をとってきた。しかし政権を目指すということになれば将来的にどうするかは別として実際に存在する自衛隊に対処せねばならない。同様のジレンマに直面したドイツ社会民主党が国防を肯定するという選択を行ったことは先に述べた。ドイツ社会民主党の13年後にこの議論に到達した社会党はしかしながら何とも奇妙な議論をつくり出す。自衛隊の「違憲・法的存在」論である。自衛隊を認めたいが、党内左派の反発にあった社会党執行部は、自衛隊は憲法に違反するが自衛隊法その他の法律によって「法的に」存在するという苦しい議論をつくり出したのである。左派の反発は強く「合法的に」という言葉すら使えなかったほどであるが、それにしても派閥党争、イデオロギー論争に明け暮れ、野党の地位に安住し時代の風をつかみ得なかった社会党をよくあらわすエピソードである。(原彬久「戦後史の中の日本社会党」208-210p)
 ドイツ社会民主党もまた50年代半ばまではマルクス主義的色彩の濃い野党として行動する「何でも反対」のイメージそのままの政党であった。しかし同党は選挙での敗北を繰り返すなかで自己をチェックし「左派国民政党」として生まれ変わった。日本社会党も細川政権への参加から村山内閣への実現へと至る過程でドイツ社会民主党が成し遂げたような変革をようやく実現する。しかしながらそれは政権というエサにすり寄っていく姿としてしか国民の目には映らなかった。ドイツ社会民主党がゴーデスベルク綱領以降大量の若い党員を獲得した(現在の首相シュレーダー氏も1978年に社会党の青年組織JUSOの委員長を務めている)のに対し社会党は社会民主党という国会議員10数名の弱小政党へと転落してしまった。この差が何から来るのかは明らかではないだろうか。ドイツ社会民主党は自ら選択し政権の座をつかんだ。一方日本社会党はそれにすり寄ったのだ。

Ⅴ.現在の社会民主党

 現在ドイツでは社会民主党と緑の党の連立であるシュレーダー政権が二期目を迎えている。一時期ほどの勢いはなくなったが欧州における社会民主主義勢力はまだまだ大きいものであると言えよう。しかしながら社会民主主義の将来は必ずしも明るいものではない。福祉国家のさまざまなひずみ(国庫財政の悪化・労働意欲の減退・エゴイズムによるコミュニティの破壊・福祉の官僚制化等々)が明らかになるなかでネオ・リベラリズムに代わるようなこれらの問題への対処策を社会民主主義は打ち出せてはいない。ブレア首相率いるイギリス労働党とドイツ社会民主党が提唱する「第三の道」はこれにあたるのであろうか。そこではコミュニティへの回帰や「ワークフェア」とよばれる職業訓練の実施による労働市場の流動性確保などが盛り込まれているらしい。いずれにせよ社会民主主義がどのように生き残りうるのかはこれからの大きな課題である。

Ⅵ.おわりに

 自分で書いていても恐ろしく消化不良な文章になってしまったので、恐ろしく読みづらくまた何もいっていないに等しいような文章であろうと思います。今後はもっとテーマをしぼりきちんと論証して行かねばならないと言うことを実感いたしました。使う資料の量が少なすぎたこと、原点にほとんどあたることができなかった(社会党の綱領類に関して)ことなど反省点をあげればきりがありません。とにかく言いたいことがまとまってなく雑然とした文章になってしまったことを深くお詫びいたします。ちゃちな文章ですがお読みいただき、忌憚のないご批判をいただければ幸いです。

参考文献

仲井斌『西ドイツの社会民主主義』岩波新書
佐瀬昌盛『戦後ドイツ社会民主党史』富士社会教育センター
原彬久『戦後史の中の日本社会党』中公新書
永井清彦編『われわれの望むもの―西ドイツ社会民主党新綱領』現代の理論社
石橋政嗣『非武装中立論』社会新書
山口二郎『現代日本の政治変動』放送大学教育振興会
真柄秀子・井戸正伸『比較政治学』放送大学教育振興会
中木康夫・河合秀和・山口定『現代西ヨーロッパ政治史』有斐閣ブックス
山口定『現代ヨーロッパ史の視点』大阪書籍
渓内譲『現代社会主義を考える』岩波新書

2002年12月5日


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