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社会民主党綱領におけるドイツ社会主義運動の影響について

はじめに

 日本最初の社会主義政党である社会民主党。その綱領を読んでみて妙な違和感を覚えた。ぼくが違和感を覚えたのは綱領の民主主義的な内容である。この綱領は「生産機関の公有化」など社会主義的な要求とともに、普通選挙や言論の自由といった民主主義的な要求をも含んでいる。社会主義といえばソ連・東欧諸国のあまりに不自由な体制を直感的に想起してしまうぼくにとって、この綱領の民主主義的な内容は驚きであると同時に新鮮ですらあった。もちろん、このような要求が行われたと言うことはこれらのいわば「ブルジョワ」的な民主主義さえもが当時の日本において獲得されえておらず「労働者階級の政党」といえどもよりいっそうの「ブルジョワ民主主義」の深化を勝ち取る必要があったことの証左とも言える。このことは、しかしながら、そのような個別日本的な時代的背景のみから説明しきれない問題なのではなかろうか。この疑問をもとに勉強したぼくはひとつの結論にたどり着いた。この小論はぼくの感じた違和感を初期日本の社会主義に大きな影響を与えたであろうドイツの社会主義運動との連関から説明しようとする試みである。なおぼく自身は社会民主党綱領に大きなシンパシーを抱いているが、そのことと以下の論述とは無関係なつもりである。

1901年という時代 ―社会主義の歴史の中で―

 社会民主党が結成された1901年とはどういう年であるか。社会主義運動史という点からこのことを簡単に振り返ってみたい。
 社会主義とは資本主義という現実の世界とは違う望ましい社会を目指す思想であり、その意味において近代におけるひとつのユートピア思想である。しかしながらそれは近代と同時に生まれたものではもちろんなく近代以前のユートピア思想とも一定の連続性を持っている。そのような近代以前のユートピア思想の代表的なものがトーマス・モアが1516年に著した『ユートピア』であろう。そこでは私有財産や貨幣が廃止されているとともに農業的生活に回帰した全島の生活が「単一の家族のような」共同体が描かれている。それはむしろ近代化に抵抗する保守的なメンタリティからの近代化への批判としてのユートピアであった。
 このような近代以前のユートピア思想とも一定のつながりを保ちつつもあらたな契機をもとに社会主義思想が生まれてくることになる。その契機とは産業革命とフランス革命である。その最初のものはフランス革命の際に生まれたバブーフの共産主義であったそこでもまた農業的生活と共同体精神が基本となっており、私有財産の廃止や革命独裁による強力な国家による改革などが唱えられた。それは「平等を強制する」ような共産主義であったということが言えよう。
 19世紀のはじめ、産業革命期にはさまざまな初期社会主義が誕生する。この時代の代表的な社会主義者としては後にエンゲルスによってユートピア的社会主義と呼ばれることになるサン=シモン、フーリエ、オーウェンといった人々がいる。サン=シモンは各人がその能力に応じて階層的に組織されるような産業社会の組織化を考えていたようだ。そこでモデルとなっているのは能力に応じて下士官が元帥にまで出世できるナポレオン軍の形態である。また「各人にはその能力に応じて、各能力にはその仕事に応じて」というスローガンがサン=シモン主義者によって打ち出された。
 1848年の革命と資本主義の世界的拡大のなかで良くも悪くもその後の社会主義を決定付けたマルクス主義が誕生する。マルクス主義は剰余価値学説と唯物史観によって理論化されたマルクス主義は世界史の理論的分析のなかで社会主義の到来の必然性を強調するとともにその革命による社会主義社会の実現を説いた。1848年に著されたエンゲルスとの共著『共産党宣言』おいてその思想は結実するとともに、晩年の大著『資本論』においてその資本主義社会の分析は完成した。その思想はプロレタリアートによる階級闘争を主張しその意味において非妥協的、戦闘的であると同時に国際的な色彩が強かった。しかしながらマルクス主義はその革命による社会主義は必然であるという主張からしばしば待機主義に陥りがちであり現実政治において力を持ちづらいと言うこと、そして来るべき社会主義のユートピアの説明をマルクスがほとんど行っていないため後にさまざまな弊害が生まれたことは指摘されねばならない。
 このような思想的発展をとげてきた社会主義は階級間矛盾がとりわけ深刻な状況であったヨーロッパの新興国ドイツにおいて運動として結実する。1863年5月フェルディナント・ラッサールは全ドイツ労働者協会を設立しここに社会主義は運動として展開していく基礎を持ったことになる。ラッサールの社会主義は国家社会主義的、改良主義的でありその運動の目標は普通選挙の実現に重点が置かれた。また1869年8月、アイゼナハにおいて社会民主労働者党がアウグスト・ベーベル、ヴィルヘルム・リープクネヒトらによって設立された。初期のドイツ労働者運動においては前者に代表されるラッサール主義と後者に代表されるマルクス主義の二つの潮流があった。この二つの潮流は1875年5月ゴータにおいて合流しドイツ社会主義労働者党を設立する。
 そのラッサール主義的な綱領に対する批判としてマルクスの『ゴータ綱領批判』が書かれるわけであるが、ここでこの二つの潮流の思想というものを考えておく必要があろう。マルクスの思想は有名であり、多言を要しないと思うがとりわけラッサール主義との比較でいうならば、それは生産力の発展が生産関係を必然的に変えていくとする下部構造を重視した唯物論的決定論と言うことができよう。一方ラッサールにおいては「意識」というものが強調される。また国家を支配階級の搾取の手段として否定的に捉えたマルクスと違い、労働者の政治参加、普通選挙の実現といった、労働者の国家への参加によって労働者の解放が実現されるとした点もラッサール主義の重要な点である。しかしながら両派ともに「労働者階級の解放」を唱えた点で共通しているということが出来よう。
 さて1891年エアフルトにおいて開かれた大会において「社会民主党」という党名が決定されるとともにマルクス主義的な色彩の強い、エアフルト綱領が採択される。この間ビスマルクのいわゆる社会主義者取締法によって合法的改良主義の道をたたれた社会民主党にとってラッサール主義という選択肢はすでに魅力的ではなくなっていたのである。この綱領によってマルクス主義理論はドイツ社会民主党の基本路線となる。しかし、皮肉なことにこのエアフルト大会の前年1890年に同胞は執行しドイツ社会民主党は帝国議会選挙で第一党となりヨーロッパ最大の組織率を誇る社会民主党組織が強固なものとなっていることも指摘しておこう。
 しかし、このヨーロッパ最大の社会主義政党はそのマルクス主義的理論故にこの後苦しむこととなる。マルクス主義的、決定論的綱領は実践において必要とされる改良主義的な運動と乖離し、理論と実践の二元性は大きな影をドイツ社会民主党に落としていく。
 この乖離を示すのがベルンシュタインの名に代表される、修正主義論争である。ベルンシュタインの主張は多岐に渡るがここではその一部を述べるにとどめる。ベルンシュタインは亡命先のイギリスにおける経験主義に影響を受け、下部構造の役割を和らげ決定論、待機論を廃し行動主義を提唱した。社会主義は「科学」や「必然」ではなく労働者の「意志」や「行動」によって実現されるとベルンシュタインは説いた。そこには現実に即した資本主義の必然的崩壊やプロレタリアの絶対的貧困化に対する懐疑があった。また国家が支配階級による搾取機関であるとする考え方に挑戦し国家の性格を労働者階級が変革しうる可能性を強調した。この考え方はマルクスとラッサールの止揚を目指したものであるということが出来よう。この修正主義はカウツキーら党内主流派の抵抗により主流とはなり得なかったがラッサール主義や修正主義が当時の社会主義に与えた影響は大きくじっさいエアフルト綱領においては現実政治における目標を掲げた部分をベルンシュタインが執筆するということになる。
 このように19世紀から20世紀はじめにかけての社会主義は、現在のドグマ化されたマルクス=レーニン主義というイメージからはほど遠く、さまざまな思想的試みの影響が未だ色濃く残っていた時代であり、それは多元的、複数的なものであったということが出来よう。

エアフルト綱領との比較

 以上のような20世紀初頭の社会主義運動の情勢は草創期にあった日本における社会主義運動とどのような関係にあったのであろうか。何よりもまずあげられるのは後者が前者の大きな影響のもとに形成されていったという事実である。幸徳秋水はその著書『社会主義真髄』のなかで『共産党宣言』や『空想より科学へ』を参考文献としてあげているし、社会民主党の前身である社会主義研究会はその例会においてサン=シモン、フーリエ、ラッサール、マルクスといった人々の思想を研究している。ここでは社会民主党綱領(以下社会民主党綱領)とドイツ社会民主党エアフルト綱領(以下エアフルト綱領)の比較を中心に具体的に論じてみたい。
 社会民主党綱領を一読して気付くことは理論部分と具体的要求を掲げた部分という形態におけるエアフルト綱領との類似性である。エアフルト綱領は当時各国の社会主義政党の模範とされる綱領であったがその構成が二部構成となっていることの意義を今一度確認する必要があろう。エアフルト綱領の理論部分は正統派マルクス主義者であるカール・カウツキーによって執筆されたといわれている。マルクス主義はその資本主義分析においては非常に鋭いが、そのポジティヴな社会主義社会の構想においては寡黙であり、またその科学的分析故に経済決定論に陥りがちなためしばしば待機主義に陥りやすいということがいえる。形式上は帝国議会において議席を有し政党活動を行っているドイツ社会民主党においてこのような日和見主義的な態度はつとに内部からの批判にさらされてきたと言えよう。このような状況を、行動主義を唱え右側から批判していったのがベルンシュタインに代表される修正主義である。ベルンシュタインはラッサール主義とマルクス主義の主要を目指し議会主義、改良主義による労働者階級の現状の改善を意図し様々な提言を行ったがその彼が執筆したのがエアフルト綱領における具体的要求を掲げた実践部分なのである。このような背景をあわせ考えれば社会民主党綱領においてエアフルト綱領との類似性を見いだすことが出来る社会民主党においても理論におけるマルクス主義と実践におけるラッサール主義、修正主義の影響を見て取ることが出来る。
 また民主主義的な要求と議会主義もこの社会民主党綱領の特徴のひとつであろう。エアフルト綱領においても普通選挙の実現や人民による直接立法、さらには表現、集会及び結社の自由といった民主主義的な要求がなされている。しかしながら社会民主党綱領において特徴的なのは普通選挙の実施や治安警察法、新聞条例の廃止といった民主主義的な要求にとどまらず実践として議会主義を高らかにうたっていることである。「帝国議会は吾人が将来に於ける活劇場なり、他年一日我党の議員国会場裡に多数を占めなば、是れ即ち吾人の抱負を実行すべきの時期到達したるなり」と述べる社会民主党綱領はあきらかに議会主義、改良主義を表明している。社会民主党は西欧社会主義の伝統のなかからマルクスの革命主義ではなく改良主義を選び取ったのである。このことは当然のことながら暴力革命の可能性を廃していないドイツ社会民主党をはじめとする各国の社会主義政党とは一線を画している。すなわち暴力革命の否定である。社会民主党綱領はこう述べている。「吾人は剣戟よりも鋭利なる筆と舌とを有せり、軍隊制度よりもなお有力なるべき立憲政体を有せり、若し此等の手段を利用して吾人の抱負を実行せば、何ぞ白刃と爆裂弾との助を借るが如き愚をなすを要せんや」。これは暴力革命への明確なる否定であると同時に議会制に対する信仰告白である。このような穏健な平和路線にドイツの社会民主党が到達するには1956年のゴーデスベルク綱領まで待つ必要があった。
 社会民主党綱領は社会主義・民主主義・平和主義の三つの柱から成り立っている。この最後の平和主義というのは日露戦争直前という時代背景もあるのかもしれないが日本独特のものということが言えよう。エアフルト綱領においては国民皆兵制や常備軍の廃止と民兵制度の導入が訴えられていたがそれは軍備の廃止などといった思想とは全く違ったものであると言えよう。レーニンがロシア革命にあたって唱えたのも軍備の全廃ではなく民兵制度の導入であったことは示唆的である。一方社会民主党綱領においては「万国の平和を来す為には、先づ軍備を全廃すること」と明記されており、この彼我に於ける違いには大いに着目するべきであろう。ここには明治維新において曲がりなりにも国民皆兵制を実現した日本とプロイセンのユンカーによる貴族的な軍隊制度を維持していたドイツとの国柄の違いとともに暴力革命を否定しないドイツの党と平和的改良主義路線を選択した日本の社会民主党との差がハッキリと出ていると言える。またそれは日露戦争において敢然と反戦論・非戦論を展開しロシアの党に連帯を表明する書簡を送ったような幸徳等の姿勢と第一次世界大戦の勃発の結果としてナショナリズムに回収されていくヨーロッパ社会主義運動との決定的な差異として論じることも可能であろう。

キリスト教社会主義という可能性

 上記の平和主義とも大いに関係することであるが、草創期にあった日本の社会主義者達がキリスト教社会主義者であったというのは大いに示唆的である。キリスト教社会主義というものは、今日のヨーロッパ諸国に於けるキリスト教民主主義政党に顕著なように保守勢力に回収されうるという限界点をも持っているが、また2、3の可能性も有していると言えよう。ひとつは上述したような平和主義ということである。社会主義は暴力的であり、キリスト教は平和的であるなどとは決して言えないが、キリスト教的博愛の精神によって組織された運動は純粋な労働運動に比べて平和的手段に訴えやすいということは言えるのではないだろうか。社会民主党綱領の手段と目的に於ける平和主義の追求はこのキリスト教社会主義と不可分である気がしてならない。またより重要な点はキリスト教社会主義者が社会民主党をつくったという事実である。キリスト教社会主義者の社会主義政党に於ける存在そのものが社会主義政党に於ける動機の複数性の確保という基準のひとつのバロメーターとして機能しているといえる。というのも、「宗教は阿片である」というマルクスの言葉をひくまでもなく史的唯物論のみが社会主義であるとする社会主義者が決して少なくなかったということがあるからである。このようなドグマ化したマルクス主義がしばしば社会主義政党を機能不全に陥らせ勢力の減退を招いたことは歴史が教えるとおりである。社会主義への複数の動機を確保することこそが党内民主主義を促進させ党の勢力を拡大するのである。実際ドイツ社会民主党が「精神の自由の政党」を宣言したのは1956年のゴーデスベルク綱領においてであり、それ以後同党の勢力が飛躍的に増大したことは他言を要しない。その意味において社会民主党は先進的と言えるような可能性を有していたといえよう。

その後の社会主義もしくは社会民主主義

 こののちの日本に於ける社会主義ないし社会民主主義勢力は残念ながらよい方向に発展したとは言えない。大政翼賛会の成立時に真っ先に党を解散しこれに合流したのが社会大衆党であったということも指摘されねばならない。また戦後再建された社会主義運動とりわけ日本社会党は左翼運動の高揚に助けられたにもかかわらずついに政権を執るに至らなかった。そこには教条的マルクス主義に陥り革命を夢見ながら日和見主義、待機主義に陥り議会主義的な改良主義を拒否したわれわれのイメージそのものの社会主義政党がある。このような状況から脱した英・仏・独といった国の社会主義勢力は政権を担当するまでになった。イタリアにおいては共産党が政権の座に着くという事態まで起きている。日本の戦後史の展開を社会民主党を結成した六人が見たらなんというであろうか。

おわりに

 20世紀の初頭に社会民主党が結成されて1世紀が経過した。社会主義はその役割を終えたようにも見える。しかしヨーロッパにおいて社会民主主義政党は未だ強力である。もちろんそれとの単純な比較が意味あることではないだろう。しかしながらあまりに嘆かわしい日本の現状を見るにつけぼくは比較をせずにはいられない。それは当然のことながら過去を嘆くのではなく、未来を語る作業である。そして全ての人が社会主義の未来を語り始めたとき世の中は動くであろう。少なくともぼくはそう信じているし、この比較という作業はそのような試みのひとつであるつもりである。

参考文献

「社会民主党百年」資料刊行会編 『社会主義の誕生』論創社
仲井斌 『西ドイツの社会民主主義』岩波新書
鹿野政直 『日本の近代思想』岩波新書
和田春樹 『歴史としての社会主義』岩波新書
マルクス 『ゴータ綱領批判』岩波文庫
幸徳秋水 『社会主義真髄』岩波文庫
アーベントロート 『ドイツ社会民主党小史』ミネルヴァ書房
亀嶋庸一 『ベルンシュタイン』 みすず書房


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