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人間の顔をした社会主義に関する若干の考察

There was a checkpoint Charlie.
He didn’t crack a smile.
(Elvis Costello)

 ベルリン。二年前の冬、初めてのヨーロッパ旅行で訪れたこの陰鬱なホーエンツォレルンの帝都はぼくにとってとても印象的な街となった。うっすらと雪化粧をしたウンター・デン・リンデンをぼくは生涯忘れないであろう。このヨーロッパ有数の大都市が、つい十五年程前までは二つに分断され、双方の市民がお互いに自由に行き来することすらかなわなかったというのは、今から考えればにわかには信じがたいことである。ブランデンブルグ門からすぐのところにそんなベルリンを象徴する博物館がある。「壁博物館」である。ぼくらの小旅行の中でもとりわけ印象的なもののひとつであったこの博物館は「東側」の人々がいかに自由を求めていたかを展示する博物館であった。そんななかぼくが興味を引かれたのが東欧の諸改革に関しての展示であった。そのときぼくは初めて「Socialism with human face」という言葉を知った。もちろん、知識として「プラハの春」やアレクサンドル・ドゥプチェクの名は知っていたけれど、それがリアルな歴史として自分の前に現れた瞬間だった。まだよくはわからなかったが、社会主義というものには可能性があるのではないか、すくなくとも過去の遺物としてしまうにはもったいないものなのではないか、そんな直感をぼくは持った。
 今回の発表はこのときのぼくの直感を立証しようとする試みである。それは「人間の顔をした社会主義」という青い鳥を追う作業であると言えなくもない。そんな青臭い論考にしばしお付き合い願いたい。

チェコスロヴァキア史もしくは「プラハの春」の歴史的条件

(1) 独立まで

 現在チェコ共和国とスロヴァキア共和国があり、かつてチェコスロヴァキアという名前の国家があったところに歴史上はじめて国家が建設されたのは9世紀のころである。大モラヴィア国と呼ばれたこの国家は1世紀と持たずにマジャール人の侵入によって崩壊したが現在に至るまでチェコもしくはスロヴァキアの歴史のなかで大きな扱いを受けている。この後チェコ人とスロヴァキア人は2世紀に至るまで、別々の道を歩むことになる。ボヘミア及びモラヴィアは独自の領邦国家を築き上げボヘミア王は神聖ローマ帝国の七選定候となりドイツとの結びつきを強めていくが、スロヴァキアはハンガリーの支配下になり結びつきを強めていくことになった。ボヘミア王国は14世紀に全盛期を迎え神聖ローマ皇帝を輩出するとともに合邦によって中・東欧にまたがる巨大な国家となった。この頃のプラハは神聖ローマ帝国の首都としてヨーロッパでも有数の大都市となった。カレルⅠ世が1348年にプラハに設立した大学はアルプス以北最古の大学であると同時にドイツ最古の大学とも呼ばれている。しかし栄華を誇った王国もフスによる宗教改革運動とそれに伴うフス戦争によって疲弊し王国にはオーストリア・ハプスブルク家による支配が確立する。これによってボヘミア王が兼位していたハンガリー王の地位もハプスブルク家がしめることになった。これによって現在のチェコ及びスロヴァキアはともにハプスブルク家の支配下にはいることになった。1526年のことである。
 ともにハプスブルク家の支配下に入ったチェコとスロヴァキアであったがその実状は大きく違ったものであった。宗教改革運動が盛んであり、新教派の勢力が強かったチェコでは旧教派の皇帝との宗教戦争となりスメタナの交響詩で有名な白山の戦いで新教派の貴族が決定的な敗北を喫した結果、チェコにおける貴族勢力は無力化することになった。この伝統的な貴族勢力の欠如が独立後のチェコスロヴァキアの民主主義を円滑に進める上で大きな意味を持ったことは否めない。また農民の解放が進むことによって工業化をもたらしたということも言えよう。一方スロヴァキアはハンガリーの支配下にあったため事情が大分異なる。ハンガリーにおいては貴族層が根強い力を維持しており、身分制議会のなかでこの貴族層を中心にハンガリーの権利を主張し反ウィーン的な色彩が色濃かった。スロヴァキア人はウィーンの皇帝とマジャール人貴族のいわば二重の支配を受けていたのであり、そこではハンガリーもしくはマジャール人の権利が主張されることはあってもスロヴァキア(人)の権利が省みられることはなかった。ハンガリー中央部がオスマン・トルコによって占領されていた間スロヴァキアの首都ブラチスラヴァがハンガリーの首都とされていたことが何よりもそのことを物語っている。
 このような状況であったチェコ及びスロヴァキアに民族的な覚醒をもたらしたのは皮肉にもヨーゼフ二世の啓蒙主義改革であった。全帝国を画一的なドイツ国家にしようとした彼の野心的な試みは各地方の民族意識をかえって覚醒させることになった。ボヘミアでは完全にドイツ化していた貴族・知識人層を中心にチェコ語に対する関心が高まり、彼らの努力によりチェコ語は言語としての体裁を整えていく。また19世紀にはいるとスメタナ、ドヴォルザークに代表されるような民族音楽が登場し、失敗に終わったものの1848年の革命などを通じてチェコの民族意識は醸成されていった。ただしスロヴァキアではマジャールナショナリズムに対する反発からウィーン政府への協力的な態度もみられたことは注目されてしかるべきであろう。
 第一次世界大戦の開戦とともにチェコスロヴァキアの独立は一気に現実味を帯びることになった。この運動を担ったのはプラハ大学教授にしてオーストリア国会議員でもあったトマーシュ・ガリグ・マサリクである。彼はその肩書きからもわかるように当初は独立ではなくオーストリア・ハンガリー帝国の連邦化を考えていたが開戦による帝国の機能麻痺の状況を見て独立へと傾いていった。開戦後亡命し西欧列強の支援を受けながら独立運動を進めていった彼はチェコスロヴァキア民族主義を唱えスロヴァキアとの合邦による独立を目指した。しかしながら当初からチェコとスロヴァキアの合邦による独立が唯一の選択肢であったわけではない。ポーランドとの合邦やロシアへの併合、そしてハンガリー内にとどまるという可能性もスロヴァキアにはあった。しかし、ロシア帝国の崩壊やハンガリーの敗戦によってこれらの道が閉ざされるとともにマサリクの訪米によりアメリカ大統領ウイルソンの支持と在米スロヴァキア人との合意が得られたためチェコとスロヴァキアの合邦が現実味を増し、スロヴァキア人もそれを受け入れたのである。独立運動は国内での組織化とチェコスロヴァキア軍団の東部戦線における投降(ロシア革命によって孤立化した彼らの救援を名目にシベリア出兵が行われた)、そしてマサリク等の亡命グループの協力によって進められた。終戦後チェコスロヴァキアは独立を宣言し各国の即時承認を取り付けている。

(2)マサリクの共和国

 独立したチェコスロヴァキアは大統領に就任したマサリクの共和国といっても過言ではない。マサリクはスロヴァキア人の父親とドイツ語を話すチェコ人の母親の間に生まれた。この彼の複雑な出自そのものが生まれたばかりの共和国の民族状況を象徴している。新国家はチェコスロヴァキアという単一のネイションステートという建前のもと成立したが、実際の民族構成比はチェコ人:46%、スロヴァキア人:13%、ドイツ人:28%などとなっていた。この二つの少数民族の扱いが新生チェコスロヴァキアの最大の問題であった。スロヴァキアでは新国家に対する不満がくすぶり続けた。その第一の問題は言語問題である。チェコ語とスロヴァキア語は似ているとはいっても決して同一のものではなくスロヴァキアではスロヴァキア語の公用語化を求める声が強かった。またフス派の影響からとりわけエリートの間においてカトリックの弱いチェコと違ってスロヴァキアではカトリックが力を持っていた。しかしスロヴァキア人エリートの数が少ないこともありスロヴァキアの行政もチェコ人の手にゆだねられることになった。また経済的な問題もおおきかった。二重帝国のなかでも最先進地域であったチェコと比べてスロヴァキアは農業地域であり、プラハによる中央集権的な支配は避けられなかった。またチェコとの合邦により経済的なつながりの強かったハンガリーとの関係が断ち切られたため、スロヴァキアはそこでも経済的な損失を被った。このような不満からスロヴァキアでは人民党という民族政党と共産党が力を伸ばしていった。さらに深刻であったのがドイツ人問題である。ドイツ及びオーストリアとの国境地帯、いわゆるズデーテン地方に居住するドイツ人はかつての支配民族であったため農地改革などで不利益を被ることが多く民族的な要求を強めていった。このドイツ人問題こそが後にヒトラーの介入を招く原因となる。
 このような問題はあったにせよチェコスロヴァキアは比較的順調な滑り出しを見せた。独立以来ナチスによる侵略までこの国の民主主義が機能し続けたことは特筆に値する。既述したとおり、この国のヘゲモニーを握ったチェコ人の間ではハプスブルク家による支配のなかで特権的な階級は存在せずドイツ人やマジャール人といった勢力も農地改革によってその力をそがれたため、民主主義が定着しやすかった。またハプスブルク帝国のもっとも豊かな部分を受け継いだボヘミア及びモラヴィアでは重工業が発展し農業地域であったスロヴァキアをこれに加えることでバランスのとれた経済発展をなしえたこともその大きな要因である。この経済的成功に裏打ちされるかたちで諸民族の融和もすすみチェコスロヴァキアの民主主義はさらに安定度を増していった。しかしながらこれらの要因にもまして強調されねばならないのがマサリクら政治エリートの信念である。戦間期チェコスロヴァキア政治の特徴は主要政党による連合政治にある。主要政党五党は「五党委員会」を結成しコンセンサスを重視した連合政治を展開した。ドイツ人政党が政権に参加したり、共産党が常に合法的な存在であったりしという事実はこの国の政党政治の安定度を物語っている。
 このように安定していたこの国をおそったのは大恐慌そしてドイツにおけるヒトラー政権の成立に影響された民族主義の高まりであった。ヒトラー政権の成立により触発されたドイツ人勢力はドイツへの併合を要求し民族的な主張を強めていった。またスロヴァキアでもこれに呼応するように人民党が勢力を拡大していった。ヒトラーは「民族自決」のスローガンのもとズデーテン・ラントの併合を要求し宥和政策を採った英仏は1938年のミュンヘン会談においてこれ以上の領土拡大要求を行わないという条件付きでこれを認めた。しかしヒトラーは続いて残りのチェコ地域に侵入しボヘミア-モラヴィア保護領としてこれを併合するとともにスロヴァキアでは人民党がヒトラーの承認の下独立を宣言した。なおこのスロヴァキア国は日独伊三国同盟にも加盟している。こうしてチェコスロヴァキアは建国から20年足らずで解体の憂き目を見ることになった。

(3)社会主義の建設

 チェコスロヴァキア共産党は1921年に社会民主党左派が結成した。この党は他国の共産党と違い常に合法的な存在であり、また比較的民主的かつ民族的な色彩の強い党であった。しかしながらスターリンは同党の「ボリシェヴィキ的再編」を要求し、1928年に指導部をモスクワに忠実な人物に入れ替える指令を出した。これ以降党内民主主義も機能しなくなりチェコスロヴァキア共産党はコミンテルンの支部としての性格を強めていく。ナチス占領下では民族主義的な運動とも協力しながら解放運動を組織していった。戦後チェコスロヴァキアは赤軍によって解放された。ロンドンに亡命していたベネシュ大統領はモスクワで共産党の代表と人事について合意した上で帰国、臨時政府を樹立した。ミュンヘン協定以来、国民の間に深く植え付けられた西欧不信や赤軍による解放というアドヴァンテージはあったものの解放後のチェコスロヴァキアでは上からの共産化は行われなかった。臨時政府では共産党は優遇され要職を握ったもののこの政府はロンドンの亡命政府を主体とし全ての政党の参加した国民戦線内閣という形をとった。1945年末に米軍及び赤軍がチェコスロヴァキア全土から撤退すると自由選挙が行われた。国民の間で社会主義への期待は高くこの選挙で共産党は40%近い得票率を得て第一党となり共産党書記長のゴットワルトが首相となった。ゴットワルト率いる国民戦線内閣の下で産業の国有化や徹底した農地改革が行われていった。
 チェコスロヴァキアの共産党はこの時期、自由選挙による政権獲得を目指すというユニークな戦術を採用していたが、社会民主党との提携によって過半数を獲得しようとしていた。しかしながら社会民主党内において右派の勢力が強まったため次第にこの戦術を転換し、武力による政権奪取を考えるようになった。1948年3月、警察の人事をめぐる問題から非共産諸党の閣僚は辞表を提出、社会民主党に同調を求め内閣の崩壊をはかったが、社会民主党はこれを拒否、軍・警察・マスメディアなどを完全に掌握した共産党の圧力の前にベネシュ大統領は非共産閣僚の辞表を受理し共産党主導の新しい国民戦線内閣が成立した。このほとんどクーデターに近い政変の後チェコスロヴァキアは完全に共産化する。非共産諸党は無力化し、もしくは解体され社会民主党は共産党と合同した。教育宗教政策においても聖職者の追放、学校における宗教教育の締め出しがおこなわれ、上級教育ではマルクス主義教育が強制された。また、有名なスラーンスキー裁判などの粛正が行われていったのもこの時期である。経済の面でも国有化と農業の集団化が推し進められ、社会主義化が進行した。また、この国の特徴であった西側との密接な関係も後退していき貿易のほとんどが東側諸国との間でなされるようになっていった。スターリン主義的な中央集権的計画経済のもとでチェコスロヴァキア経済は意外にも順調に成長していったように見えた。1949年から始まる第一次及び第二次五カ年計画の下でチェコスロヴァキア経済は西ドイツや日本と並ぶ高い率で経済成長を遂げていった。チェコスロヴァキアはこのようにスターリン主義的な社会主義化を進めていった。

移行としての「プラハの春」

 ここでは「プラハの春」の過程を移行と捉え、オドンネル/シュミッターの議論を当てはめて考察していきたい。

(1)「ハト派」の登場

 1956年に開催されたソ連共産党第二十回党大会におけるフルシチョフによる秘密報告、いわゆるスターリン批判は全世界の社会主義者に大きな衝撃を与えた。東欧においても同様であり、各国の体制に同様が見られポーランドにおけるゴムルカの復権やハンガリー動乱とその後のカーダール政権成立などはその一例である。スターリン批判とフルシチョフ政権の確立は東欧諸国に概して経済政策における農業集団化の後退と重工業偏重政策の見直し、ソ連による統制の緩和(少なくとも各国の自主性の主張)などをもたらした。しかし、各国の「小スターリン」たちが失脚していくなかで一人チェコスロヴァキアだけはノヴォトニーによるスターリン主義的統治下にとどまった。これはスターリン批判によってソ連の東欧諸国に対する統制が弱まった結果とも、政権基盤が決して強固とは言えなかったフルシチョフが、ノヴォトニーの支持を必要としていた結果ともとれる。いずれにせよ、経済が好調であったことも手伝いチェコスロヴァキアの共産党政権は1956年の危機を乗り切った。1960年には国名をチェコスロヴァキア社会主義共和国とすることなどをもりこんだ、新憲法が発布されている。
 順調に社会主義建設の道を歩いているように見えたチェコスロヴァキアであるが、1960年代になると様々な矛盾が噴出してきた。ます、それまで順調な成長を見せていた経済が変調を来した。農業生産、工業生産ともに60年代前半にはマイナス成長を記録し61年に始まった第三次五カ年計画は放棄されることを余儀なくされた。これはソ連型の農業集団化政策の強制と強力な中央集権的計画経済による重工業偏重政策が生み出していった経済のひずみが一気に噴出したものである。このような事態に対しノヴォトニーの硬直化したスターリン主義体制はいたずらに共産圏の優等生を自認するだけで有効な対策を打てずにいた。ここにいたって経済学者の間から経済改革を求める声が挙がり始めた。オタ・シクを中心とする改革派経済学者は生産手段の社会化という原則は維持したままで市場経済の導入、企業をそれまでの中央の指令ではなく独立採算性の原則によって運営することなどを唱え始めた。1965年にこれらは党の承認を得るに至っている。こうした中、国民の間では知識人や学生を中心にノヴォトニー政権に対する批判が高まっていった。また、プラハの中央集権的な体制に対するスロヴァキアの不満も高まっていった。そのような中で1967年に作家同盟の大会で体制批判が噴出したことをきっかけにノヴォトニー政権は崩壊し、1968年一月、改革派でスロヴァキア共産党第一書記であったアレクサンドル・ドゥプチェクが第一書記に就任、チェルニーク首相、スモルコフスキー国民議会議長、オタ・シク副首相などの改革派政権が誕生した。またノヴォトニーは大統領職の辞任も余儀なくされ後任にはスヴォボダ将軍が就任した。オドンネル/シュミッターの定義に従えば「ハト派」の登場である。

(2)改革派のジレンマ?

 ここで体制移行の開始時期をめぐる議論について若干の考察を試みたい。民主主義への移行における体制内ハト派のジレンマもしくはパラドックスは以下のようなものであった。すなわち、民主主義への移行後も権威主義体制内の勢力が権力の座にとどまろうとするならば現政権の(とりわけ経済分野における)政策がうまくいっており、国民の支持を得られる状況になければならないが、逆にそのような条件下ではわざわざ民主化することによって政治ゲームにあらたなアクターの参入を招き不確実性を増大させなければならない積極的な理由は何もないということである。しかしながら、1968年のチェコスロヴァキアにおけるドゥプチェク政権による一連の自由化はこのジレンマを否定しているように思われる。そこでは経済そのほかの政策に失敗した現政権の中から改革派が表れ自由化を推し進める中で国民の支持を獲得していったからである。事実この時期の国民の共産党への自発的な支持は50%を越えていたと言われている。とするならば、このチェコスロヴァキアにおける自由化は「体制確信・自己発動シナリオ」ではなく「反対勢力誘発シナリオ」なのだろうか?しかしながら、当時のチェコスロヴァキアにおいて有力な反体制勢力は存在しなかったと言っていい。現体制への不満はまず体制内のリベラル派もしくは改革派から出され、大多数の国民がこれを支持したと理解した方がより事実に近いであろう。もちろん、ソ連におけるスターリン批判以来の国際的要因を挙げることも不可能ではないだろうが、それのみで自由化の要因を全て説明しきるのはあまりに乱暴であろう。とするならば、民主化の開始時期にはそもそもジレンマなど存在しないのであろうか(注1)。

(3)「ハト派による自由化」

 ドゥプチェク政権は「人間の顔をした社会主義」のスローガンの下、矢継ぎ早に「自由化」政策を打ち出していった。検閲の廃止、秘密警察の権力縮小、ノヴォトニー派スターリン主義者の追放などが行われるとともに経済面では企業の自主管理や市場経済の部分的な導入などが検討された。また外交面でも西側、特に西ドイツとの関係改善の必要性が(とりわけ経済的な見地から)語られ始めていた。このような自由化路線の憲章とでもいうべき文書が1968年4月5日にチェコスロヴァキア共産党中央委員会が採択した「行動綱領」である。以下ではこの行動綱領から「プラハの春」が目指した「人間の顔をした社会主義」とはなんであったかを考えてみたい(以下行動綱領からの引用は『戦車と自由-チェコスロヴァキア事件資料集-』によるはずである)。そこではチェコスロヴァキアが社会主義国であり、「ソ連及び社会主義諸国との協力」がうたわれ「ワルシャワ条約の共同行動」を推進することが述べられている一方で「我々は市民の様々な層及び集団の現在の利益及び要請に相応し、かつ何らかの組織の独占的権利による官僚主義的制限を受けない。集会及び結社の憲法上の自由が与えられなければならない。……社会主義は、単に労働人民を搾取的な階級関係の支配から解放するにとどまらず、どのようなブルジョワ民主主義よりも個人の個性を完全に実現できるようにしなければならない」とされ様々な自由の保障が打ち出された。具体的には上にあげた集会及び結社の自由の他、旅行及び移住の自由などがあげられている。また「もはやいかなる搾取階級からも命令を受けない労働人民は、権力の座からの恣意的な解釈によって、どのような情報は与えられるべきであるがどのような情報は与えられるべきではないとか、どういう意見は公表してもよいが、どういう意見は公表してはならないとか、世論が役割を果たすのはどういう場合で、果たすべきではないのはどういう場合であるとかについて、もはや事細かく指令を受けることはあり得ない」と述べられ、事前検閲の廃止や外国の新聞の輸入及び販売の拡張などが盛り込まれた。さらに「党の政策は、国家機構全体において、一つの部門、一つの機関、あるいは一個人に過度に権力が集中してはならないという要請から出発している。一つの部門で誤りや失策があった場合、外の部門の活動によって速やかに是正されるよう権力を分割したり、個々の部門が相互に抑制したりする制度を設けなければならない」という記述も見られる。ここでは具体的な措置として、三権分立の徹底、特に裁判所の地位強化、内務省への過度な権力集中の防止、秘密警察の分割及びその権限の縮小があげられている。また「われわれは、社会主義経済の作動のために、また企業で労働が社会的に有効に活用されてきたかを測定するため必要な機構として、市場の機能を復活させることに大きな期待をかけている。ただ、われわれが考えているのは、資本主義的な市場ではなくて社会主義的な市場であり、統制された市場の利用である」として、市場経済の部分的な導入が期待を持って語られていると同時に「われわれは、文化政策の遂行にあたって、行政的官僚的主義的方法を拒否し、そのような方法から身を引き、かつそれに反対するであろう。芸術的な活動を検閲に服させてはならない。文化及び芸術の社会的・人間的機能についての狭い見解、そのイデオロギー的、政治的役割の過大評価、並びに人間と人間世界の改革におけるその根本的な文化的、美的任務の過小評価を克服する必要がある」と文化部門における自由についてもふれられている。そして、これらが憲法及び法律によって規定されるべき事を強調している点も特筆に値しよう。
 一見したところ西側諸国並の「自由度」であるようにぼくには感じられる。スウェーデンなどの社会民主主義政党が政権を執っている国との大きな違いはもはやその政権政党が「指導的な地位」にある前衛党か自由な選挙で選ばれた政党であるかという点しかないのではないだろうか。逆に言えば、ここまでの自由化は「民主主義への移行」を必然的に伴うのではないだろうか。そこで次に政治的民主化について検討してみたい。

(4)「不確実性の制度化」

 チェコスロヴァキアにおける1968年の民主化への試みは自由化へのそれ以上に論じがたい。なぜならそれが実現される前にソ連による介入によって改革への流れそのものがストップしてしまったからである(それ故「プラハの春」は実際以上に高く評価されているという意地の悪い見方もできる)。そこでここではチェコスロヴァキア共産党が「社会主義的民主主義」として目指していたものを論じてみたい。行動綱領は以下のように述べている。「共産党は人民の自発的な支持を基礎としている。党は、社会を支配することによってではなく、社会の自由で進歩的な社会主義的発展に、最も献身的に奉仕することによって指導的役割を果たしている。党はその権威を強制することは出来ず、党の活動によってこれを獲得しなければならない」。ここには明らかにひとつの思想が流れていると言えよう。すなわち、スターリン主義的な国家権力と癒着し社会を支配する党から、マルクス・レーニン主義もしくはトロツキズムにおける前衛党の立場に立ち返ることによって社会の自発的な支持を受けなければならないという理論である。これは民主主義と呼べるのであろうか。「人民の投票をめぐるエリート間の闘争」というシュンペーターの定義にしても「不確実性の制度化」というプシェヴォルスキの定義にしても複数政党制とその結果の不確実性の保障が不可欠である。このような民主主義の定義から当時のチェコスロヴァキア共産党が民主化を行うつもりであったかと問えば、答えは限りなく否に近いであろう。行動綱領は「現在最も重要なことは党が社会におけるその指導的役割を十分に発揮するような政策を遂行していることである。われわれは現在、これがわが国の社会主義発展の条件になっていると確信している」とのべ党の指導的役割を強調している。社会主義的民主主義とは精々のところ国民戦線内における民主諸党派に実体を与え、より大規模な国民の参加をはかる以上のものではなかった。国民戦線のヘゲモニーは共産党が握りその他の政党は共産党の傀儡ではないにしてもその競争者もしくは反対党たりえなかった。これはソ連で教育を受けた「生粋の共産主義者」であったドゥプチェクその人の限界でもあったと言えよう。
 もちろん、実際に自由化が進めば、共産党やドゥプチェクの考えていた以上に民主化が進んだ可能性はある。しかしながら、それはこの時から20年後の事態が証明しているように資本主義化以上のことを意味してはいないようにぼくには思える。

(5)「クーデター・ポーカー」としてのソ連による介入

 「プラハの春」は結局ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍の軍事介入によって終わりを告げる。そこでここではこの軍事介入の問題を「クーデター・ポーカー」として捉えてみたい。
 東欧に存在した社会主義諸国の様々な改革運動に対するソ連の介入をまず1956年の二つの例を中心に考えてみたい。スターリン批判をきっかけに民主的民族的要求がたかまり、体制の動揺が見られるようになった。ポーランドとハンガリーではとりわけ事態は深刻であり、何らかの体制変革は避けられないように思われた。この事態に対し両国の対応及びその結果はコントラストをなしており大変興味深い。ポーランドではソ連の介入を必至と見てその回避のために各勢力間の妥協が成立し国民に人気のあり、かつて「民族的・右派的偏向」を理由に失脚していたゴムルカの復権が実現し、事態は沈静化した。一方ハンガリーにおいては同じく国民に人気のあったナジ・イムレが事態が深刻化したのちに首相となったが党内の支持も得られずまたエスカレートする一方であった大衆の理解も得られないままそのエスカレーションに引きずられる形で複数政党制の導入と中立化=ワルシャワ条約機構からの脱退を宣言しソ連による軍事介入を招くのである。この二つの事例から考えるに東欧の民主化におけるソ連軍カードによるクーデター・ポーカーはかなりの程度有効であるように思われる。ハンガリーのカーダール政権やチェコスロヴァキアのフサーク政権など「正常化」後の政権の正統性形成に役立っているし、ソ連の「制限主権論」から「シナトラ・ドクトリン」への転換が東欧の政治変動を引き起こしたのもその一例であろう。ではチェコスロヴァキアの場合はなぜ軍事介入が行われたのであろうか。チェコスロヴァキアにおいては社会主義陣営にとどまること及びワルシャワ条約機構にとどまることは繰り返し表明されてきたし、自由な表現が認められていたため一部においては過激な論調もあったが全体としてはクーデターポーカーを使うまでもなくドゥプチェク政権は事態を掌握していたと言えるのにである。それはまさしく「プラハの春」が社会主義を標榜していたからに他ならない。「人間の顔をした社会主義」というスローガンを見たブレジネフが「わが国の社会主義はどんな顔をしているのかね?」とたずねたというアネクドートがあるように、それはまさしく東側の体制の根幹を支えるイデオロギーそのものをゆるがしかねないものであったからこそソ連は介入したのである。
 このことは何よりもドゥプチェクその人がクーデター・ポーカーを使うべきであった事を示しているのではないだろうか。ドゥプチェクその人に民主化における限界があったことはすでに述べた。すなわち、より以上に民主化が進んだ場合ドゥプチェク政権そのものが事態を把握しきれなくなるおそれは十分にあったと言えよう。だとするならば、ハンガリーにおけるカーダール政権のようにソ連による軍事介入の可能性をちらつかせながら少しずつ自由化していく道が「共産主義者」であるドゥプチェクには最善であったのかもしれない。(注2)

社会主義的民主主義

 人間的な社会主義というチェコスロヴァキアの壮大な実験は失敗に帰した。それはもはや実現不可能な夢なのだろうか。そうではないだろう。東欧革命時多くの国があるべき体制として「スウェーデンのような国」を志向したという事実は何よりもそのことを物語っているのではないだろうか。ギュンター・グラスや緑の党といった西ドイツの一部の人々がドイツ統一に反対した理由のひとつにもこのことがあるのかもしれない。しかしながら「第三の道」の実現は簡単なことではない。とりわけ社会主義的民主主義をどのように構築するか、複数主義的社会主義は可能かという問いはとても重いものである。最後にこのことについて若干の考察を試みたい。
 ドイツにおける政党制は有意義な示唆を与えてくれる。現代ドイツの政党制はサルトーリの分類に従えば穏健な多党制である。ワイマール期においては小党が乱立し典型的な分極的多党性であったこの国でなぜこのようなシステムが可能となったのか。その答えは憲法にある。ドイツにおいては「自由な民主的秩序」に反対する政党は違憲となる。この憲法の条項によってドイツの政党政治はワイマール期に比べてその両端が切りつめられイデオロギー距離が全体的に短縮されているのである。これと5%条項により政党の数が削られることによってドイツにおける穏健な多党制は維持されている。いわばドイツにおける穏健な多党制は人工的な産物なのである。このようなシステムが応用されれば社会主義的な民主主義は可能ではないだろうか。将来、社会主義に対する国民的なコンセンサスが得られれば社会主義政党以外が違憲とされ社会主義政党以外が参入できない狭いイデオロギー距離による民主主義が可能かもしれない。もちろん、コンセンサスが得られなければそれはただの抑圧体制に過ぎないだろうが。

終わりに

 ぼくの社会主義を求める旅も三ヶ国目に入りました。今回も時間的制約に追われいい加減な内容になっているのではないかと危惧しております(特に後半は半分寝ながら書いていたので…)。本来ならば注をつけるべきなのでしょうが、大分昔に読んだ本が多いので特定し切れていません。ごめんなさい。なお基本的に数字の類は矢田俊隆著『ハンガリーチェコスロヴァキア現代史』(山川出版社)から引用しています。次回はまた浮気性を出してハンガリーをやるか、今回精緻化しきれなかった、民主化と社会主義の問題を掘り下げるか考え中です。

参考文献

矢田俊隆『ハンガリーチェコスロヴァキア現代史』(山川出版社)
シュミッター/オドンネル 真柄/井戸訳『民主化の比較政治学』(未来社)
F.フェイト 熊田亨訳『スターリン時代の東欧』『スターリン以後の東欧』(岩波現代選書)
小野耕二「現代ドイツの政党政治」(日本政治学会編『三つのデモクラシー』所収)
『戦車と自由Ⅰ・Ⅱ』みすず書房
G.サルトーリ 岡沢/川野訳『現代政党学Ⅰ・Ⅱ』早稲田大学出版部
G.グラス 高本研一訳『ドイツ統一問題について』中央公論社
R.ダーレンドルフ 岡田舜平訳『ヨーロッパ革命の考察』時事通信社
A.ドプチェク 熊田亨訳『証言プラハの春』岩波書店
パーベル・ティグリット 内山敏訳『プラハの春』読売新聞社

2003年6月5日発表

以下に発表時に議論となったものを補注として追加します。あわせてご覧ください。
(1) この議論の解決策はこのころの民主化過程はオドンネル/シュミッターが想定したような4者ゲームではなく体制内ハト派とタカ派の二者ゲームであったことに求められるのかもしれない。これは社会主義体制が正当性を維持しえた当時有力な反体制派が存在し得なかったためである。

(2)とはいっても、おそらく当時の真正共産主義者に介入を予想することは不可能であった。彼らにとってソ連の介入などは想定外のことであったろうことは想像に難くない。本文中に出てくるポーランドのゴムルカの例はハンガリーという前例が間近に起こったためになしえたことであった。ただし、68年以降のいわゆる「正常化」時代においてはこの議論はかなり説得力があるのではないだろうか。


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