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プラハより

拝啓

 今ヴルタヴァのほとりでこれを書いています。ヴルタヴァはラインのように時の流れを感じさせてくれるほど雄大ではありませんがどこまでもプラハの景色に溶け込んでいてみるものをあきさせることを知りません。ここにいるとついついスメタナのメロディーを口ずさんでしまいます。中央駅にはつかなかったので一駅分歩きました。なにやら共産主義時代の影を色濃く残したような町並みでした。人影が少なく、道路の状態も悪く、建物もボロイ。街角で車を修理していたのですが解体しているのではないかと疑うほど古い車でした。この街は以外と歩くには不便な街です。でこぼこが多いし、歩道がちゃんとあるとは限らないし、やたらと地下道を歩かされます。中央駅や旧市街はさすがにヨーロッパの古都にふさわしい雰囲気を漂わせています。今日は国立劇場前のヴァーツラフ広場を通って中央駅へ行き切符を買いました。このヴァーツラフ広場はプラハの目抜き通りです。ここにはボヘミア王国の初代国王である聖ヴァーツラフの銅像があります。彼には国難に際して復活し国を救うという伝説があるそうです。ここは1848年の革命に人々が集まったところであり、1918年にチェコスロヴァキアの建国が祝われた所であり、1989年に多くの人々が集いドプチェクとハベルによって共産主義の終焉が宣言されたところでもあります。というよりも1968年の「プラハの春」の舞台と呼んだほうがわかりやすいでしょう。「プラハの春」、この激動の時代を語らずしてチェコスロヴァキアの歴史を語ることは出来ません。1960年代、多くの国でのそれと同様に硬直化した共産党一党独裁の元でのスターリン的社会主義建設の行き詰まりはここチェコスロヴァキアでも顕著になってきました。経済の成長にはかげりが見え始め、人々は自由を求めるようになります。「変化」を最初に求めたのは作家達でした。1967年6月29日チェコスロヴァキア作家同盟大会が開かれ、「自由の欠如」を非難する決議が採択されました。その後「リベラル派」と「保守派」との間の抗争の中で1968年1月3日アレクサンドル・ドプチェクがチェコスロヴァキア共産党第一書記に就任し「プラハの春」がスタートします。この「改革」のスローガンは「人間の顔をした社会主義」でした。「プラハの春」の改革の指針となった行動綱領「チェコスロヴァキア社会主義への道」はこううたっています。「共産党は人民の自発的な支持を受けている。党は、社会を支配するのではなく、社会の自由で進歩的な社会主義的発展に、きわめて献身的に奉仕することによって、その指導的役割を果たしている。党はその権威を強制することは出来ず、党活動によってくり返しこれを獲得しなければならない」「自由意志による組織、特殊利益団体、クラブなどを官僚主義的な干渉もいかなる組織による独占も受けずにわが市民の様々な層及び集団の現実の利益と要求を満たすように設立することが法律で保証されるように、集会及び結社の憲法上の自由の実現は今年中に確立されなければならない。……社会主義は、単に労働人民を搾取的な階級関係の支配から解放したにとどまらず、どのようなブルジョワ民主主義が与えるよりも人間らしい充実した生活を送れる可能性をふやさなければならない。」「報道に関しては、国家、党およびジャーナリスト機関の公式的立場をそれぞれ区別しなければならない。党機関紙は、特に党自身の活動、共産主義者の間の意見の展開と批判などを伝えるべきであって、国家の公式見解と全面的に一致する必要はない」「党の政策は、国家機構全体にわたって、一つの部門、一つの機関、あるいはただ一人の個人に過度に権力が集中してはならないという原則に基づいている。一つの部門で誤りや失策があった場合、外の部門の活動によって適時是正されるよう権力を分割したり、相互に監視する制度を設けなければならない」「われわれは、社会主義経済が機能する上で、また企業における労働が社会的に有用な方法で支出されてきたかを調べるため必要な機構として、市場の機能を復活させることに大きな期待をかけている。しかしながら、われわれが念頭においているのは、資本主義的な市場ではなくて社会主義的な市場であり、市場の統制されないままの利用ではなくて規制された利用である」「われわれは、文化政策の遂行にあたって、行政的官僚主義的方法を拒否し、そのような方法と絶縁し、かつそのような方法に反対するであろう。芸術的な活動を検閲にゆだねてはならない。……文化及び芸術の社会的・人間的機能についての狭い理解、そのイデオロギー的、政治的役割の過大評価、並びに人間と世界の改造に果たすその基本的、一般的な文化的、美的任務の過小評価を克服する必要がある」この綱領は国家における共産党のあり方を根本的に見直しつつ、自由や人権といった近代的な諸権利を「社会主義」として追求しようとしています。このチェコスロヴァキアの実験は「社会主義」とはいかなるものかという問いを私たちに突きつけたとはいえないでしょうか。近代の陰陽を全て飲み込み、その根元的矛盾の最終的な解決を約束する桃源郷としてのマルクス主義が、単なる全体主義の一形態にまで落ちぶれてしまったこと自体、歴史の皮肉以外の何物でもないのでしょう。しかしその中でチェコスロヴァキアのみならず多くの国で「真の社会主義」を目指して改革が行われたこと、多くの人々がその理想を追い求めたことは事実なのです。わずか一年あまりの間でしたが、「人間の顔をした社会主義」を目指した改革の結果チェコスロヴァキアでは共産党以外の小さな政治フォーラムもできましたし、検閲はなくなりました。人々は自由に考え自由に発言し、自由に発表し自由に行動することが出来るようになりました。彼らは社会主義を捨てたわけではありません。「プラハの春」の改革を通して共産党の支持率はかつてないところまで高まりました。それは「社会主義への道」でした。社会主義を標榜していた当時の東欧諸国において本当に理想道理の社会主義が実践されていたかといえば残念ながら「ノー」といわなければならないようです。「プロレタリア独裁」という単語は批判を許さない排他的、絶対的権力に理論的根拠を与えました。絶対的権力は絶対的に腐敗するものです。権力というもの自体私たちにとって必要悪なのかもしれません。腐敗した絶対的権力に突きつけたチェコスロヴァキアの人たちの「ノー」こそが「人間の顔をした社会主義」にほかなりません。「国」という単位にしばられるのはあまりいいことではない気もしますが、私たち「国民」が求めるものは国によって違います。この時代多くの国で左翼的な運動が盛んになっていました。パリでのカルチェ・ラタン闘争、日本の安保闘争、その他世界中に運動は広がっていました。でも最近私は思うのです「本当にあの闘いは必要であったのか」と。あの安保闘争がもたらしたもの、それはゲバとアジ演説に酔いしれる哀れな左翼学生の自己満足の世界ではないでしょうか。私たちの国はどこかで道を間違えたのではないでしょうか。日本には当時から「民主主義」と「自由」がありました。私たちが求めていたもの、それは「革命」だったのでしょうか。「プロレタリア独裁」だったのでしょうか。私は違うと思います。私たちが求めていたもの、それは「平和」であり、「抑圧のない世界」であり「人間の顔をした世界」でしょう。日本の左翼指導者にはそれが伝わらなかったのではないでしょうか。「前衛党」を名乗っていた共産党、「反資本主義的な労働者階級を中核として歴史的必然にしたがって社会主義革命を遂行する」とした「日本における社会主義への道」と題された綱領的文書を持ち自らを「階級的大衆政党」と位置づけて階級闘争路線を強めていた社会党、さらには本気で革命を考えていた新左翼諸党派、そんな人たちに社会主義は踏みにじられてしまったような気がします。あるものの価値は階級闘争との距離ではなく現実との対話の中にあったのではないか、そう思うのです。全世界的に革命前夜といった雰囲気のあった1960年代後半、自分たちが本当に必要なものを認識していた人たち、等身大の社会主義を知っていた人たちが、どれだけいたのでしょうか。あの時代に社会主義を叫ぶことは簡単だったでしょう。その時代にこそ「社会主義」とは何かという真摯な議論が必要だったのではないでしょうか。「プラハの春」には自由と民主主義という明快な目標がありました。私たちの国にそのようなものがあったのか、そんな疑問を私は持つのです。「無目的の革命」ほど無意味なものはない気がするのです。私は「社会主義とは何か」などという問いに答えを出す気はありません。というよりそれは答えのない問いなのでしょう。でもそれは答えのない問題だからこそひとに不利益を与えたり、ましては人を抑圧したりするようなものであってはならないと思うのです。社会主義に限らず政治は人に夢を与えられなければなりません。ナポレオンにしてもレーニンにしてもヒトラーにしても人々が彼らに熱狂したのは彼らに夢を見て、未来を見たからです。社会主義という単語は人々に夢を与えることができます。実際二次大戦後社会主義建設の名のもとに熱狂的に東欧諸国の国づくりに参加した人の数は少なくなかったのです。社会主義はその「夢」に見合うものでなければならないでしょう。それはそれ以上でもそれ以下でもあってはいけないのです。等身大の社会主義、それは国によって、時代によって違うのでしょう。そしてそれがちょうどよくおさまったとき、人々の心を捉えることができるのです。チェコスロヴァキアにおける「プラハの春」はそんな運動だったのではないでしょうか。
 「プラハの春」を指導したアレクサンドル・ドプチェクはそれまでの政治家とは少し違いました。「ドプチェク」とは小さな樫の木という意味だそうです。彼はその名のとおりカリスマに頼った強引な政治をする男ではなかったようです。今風の言葉を使えば「しなやか」とでも言えばいいのでしょうか。彼がチェコスロヴァキア共産党の第一書記になったとき、プールで泳いだり田舎の小さな祭りで踊ったりする彼の写真が出回ったそうです。共産主義国の指導者の写真といえばどれもこれもいかめしい顔ばかりしているのがあたりまえでした。指導者のそういった顔が見えるというのは画期的なことだったのです。「人間の顔をした社会主義」とは「ドプチェクの顔をした社会主義」でもありました。そんな新たなスタイルの指導者「小さな樫の木」は人々から70パーセントを超える支持を得ていました。しかしながら時代の流れと人々の願いに吹き付ける北風に抗うにはこの樫の木は少し小さすぎたようです。「社会主義国全体の利益のためには一国の主権は制限されるべき」とするいわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」を理論的根拠にしてワルシャワ条約機構5カ国の軍隊がチェコスロヴァキアへ侵攻、ドプチェク等党指導部をモスクワへ拉致し「プラハの春」は終止符を打ちました。1968年8月21日のことです。チェコスロヴァキアの対応はすばらしいものでした。チェコスロヴァキア共産党は臨時党大会を開き軍事介入に抗議、スボヴォダ大統領はモスクワへ向かいドプチェクらの即時無条件の帰国を求めました。人々は街頭でソ連軍戦車兵と討論したそうです、「ここは君たちの国ではない。帰ってくれ」と。人々はヴァーツラフ広場にある聖ヴァーツラフの銅像の下に座り込み抗議の意思を示しました。「人間の顔をした社会主義」が幅広い人々の夢であったことはこれらのことからも証明されるのではないでしょうか。このチェコスロヴァキアの人々の夢に対してブレジネフは頑迷さをもって答えました。彼はドプチェクらに対してこういったといわれます。「どうしてこんな簡単なことがわからないのか。先の大戦でわれわれの軍はエルベまで行った。それ以来エルベはわが国の国境線なのだ。その中で勝手な事をされても困るのだ」と。「プラハの春」は超大国の意思によってつぶされました。しかしそこで証明されたのは超大国の軍事力ではないはずです。リーダー、ドプチェクを信頼し冷静な対応を取ったチェコスロヴァキアの人たちの勇気をこそ賞賛すべきではないでしょうか。「プラハの春」は社会主義のあり方だけを問う動きではなかったはずです。チェコスロヴァキアを自分たちのものにするための運動であり、大国に翻弄されてきた小国のささやかな抵抗であったとも言えるでしょう。残念ながら彼らの戦いは敗北に終わりました。しかしながらそれはそこで彼らが問うた事を無意味にするものではありません。彼らが問うたものは「人間の顔をした社会主義」とともに永遠に私たちに突きつけられるでしょう。


 中央駅から逆へ進むと旧市街の中心地へたどり着きます。ヤン・フスの銅像のあるこの広場には、ケレンスキー宮殿という宮殿があります。1948年にチェコスロヴァキアの共産主義化が宣言されたのがここです。この広場からさらに進むとヴルタヴァが流れ、対岸にはプラハ城を一望できます。スメタナの名曲であまりに有名ですが、この連作交響詩「我が祖国」はナショナリズムの嵐が吹き荒れた当時熱狂的に人々に迎えられました。プラハ城と町並みはすごくきれいでした。プラハ城のふもとを流れるヴルタヴァ川にはカレル橋という石造りの橋が架かっています。この橋は14世紀にボヘミア王国の最盛期を演出したカレル1世がつくらせたものだそうです。カール4世として神聖ローマ皇帝でもあった彼の統治下でプラハは神聖ローマ帝国の首都として大きな発展をとげることとなります。しかしプラハが神聖ローマ帝国の首都であったということはボヘミア、つまりチェコが神聖ローマ帝国の一部分となったと言う事を如実に物語っていました。ドイツ人にとって神聖ローマ帝国はドイツ帝国に他なりません。ナポレオンによって帝国に終止符が打たれ彼が皇帝に即位した事をドイツ人はドイツからフランスに皇帝の座が移ったと考えているぐらいですから。この事はドイツ人にチェコはドイツの一部であるという認識を結果として抱かせました。ドイツ人がベーメン(ボヘミア)とこの国を呼ぶ時、それはこの国はドイツのボヘミア地方であるという認識に基づいているといわれます。プラハにあるプラハ大学(カレル大学)はアルプス以北最古の大学ですが、それは時としてこう呼ばれます。「ドイツ最古の大学」と。チェコスロヴァキアのみならず、東欧の国々の独立には大ドイツ主義との葛藤が常に存在します。東西ドイツ統一の際、必ずしも各国が統一を歓迎しなかったのはそのような理由があるからです。「強いドイツ」「大きなドイツ」や何よりもドイツ人の中にあるそれらへの思いが近隣諸国との摩擦の種となっていることは事実のようです。大国に挟まれた小国が生きづらいのは何も「国家」として力に翻弄されるからだけではありません。それは人々の意識の中にその国が生き残れるかという問題でもあるのです。チェコをドイツ領と考える人がいたことは確かですし、かつてこの国が「ソ連領」であった時代があったのも事実なのです。


 ここプラハはかつてチェコスロヴァキアという国の首都でした。この国は民族問題を考える上で多くのことを教えてくれる国です。国名からも分かるように、この国はチェコとスロヴァキアと言う二つの民族からおもになっていました。もともと同じスラブ系に属する二つの民族は長い歴史の中でずいぶん違う道のりを歩かされてきました。チェコは10世紀にはボヘミア大公国という国家になり神聖ローマ帝国の一部になっています。一方スロヴァキアはハンガリー王国の一地方としての歴史を歩むことになります。しかしオーストリアのハプスブルク家がボヘミア、ハンガリー両国の王位を継承することによって二つの民族はオーストリア、ハプスブルク帝国の支配下にはいることになりました。一つの国の中にあるといっても二つの民族はかなり違った境遇の中にいました。ボヘミア王国はかなり早くに国としての存在を失いチェコはウィーンの管轄下に置かれました。一方封建的な貴族の力が強かったハンガリーは独自の議会、独自の政府を保ち、後にハプスブルク帝国は二重性といわれる体制になることになります。スロヴァキアはこのハンガリーの一部となり、ハンガリーの中心部がオスマン・トルコに占領されていたこともあり、現在のスロヴァキアの首都ブラチスラヴァはハプスブルク・ハンガリーの首都として機能していました。
 19世紀にはいるとナショナリズムという思想がヨーロッパに広がります。ウィーン体制を崩壊させた1848年の革命は自由を求める人々の革命であると同時に独立を求める民族の戦いでもありました。プラハにおける革命は結果として失敗に終わりましたが、一度高まった民族主義が消えることはありませんでした。ここで問題にされたのが言葉の問題でした。ドイツ語に対するチェコ語、マジャール語に対するスロヴァキア語の公用語化が説かれたのです。スメタナが連作交響詩、「我が祖国」を書いたのもこのころです。チェコ民族の歴史に取材したこの曲は当時、人々に熱狂的に迎えられたと言われます。1914年、第一次世界大戦の勃発とともにチェコスロヴァキアは独立へ向けて動き始めます。オーストリア軍に従軍していたチェコ人、スロヴァキア人の兵士がロシア軍に投降、ロシア軍に従軍してオーストリア軍と戦い始めます(ロシア革命で進退窮まったこれらの軍隊の救援を口実にシベリア出兵が行われました)。国内でも様々な独立へ向けた動きが起こり、1918年10月28日チェコスロヴァキア国家が成立します。この一連の動きを語る上でかかせないのが当時ロンドンに亡命していたプラハ大学の教授トマーシュ・ガリグ・マサリクです。彼は各国首脳に通じる豊富な人脈を駆使してこの生まれたての国家に対する列強の承認を勝ち取りました。彼は帰国した後チェコスロヴァキア初代大統領となりチェコスロヴァキア建国の父と呼ばれます。彼はチェコスロヴァキアを一つの「ネーション・ステート」として位置づけました。すなわちチェコ人、スロヴァキア人という区別を付けずチェコスロヴァキアという一つの民族があると考えたのです。実際二つの言語にそれほど大きな違いはなく大きな習慣上の違いが両民族の間にあるということもありませんでした。チェコスロヴァキアはマサリクがつくった国、マサリクの夢の国と言われます。彼はスロヴァキア人の父とドイツ語を話すチェコ人の母を持つという複雑な家庭環境の中に生まれました。その意味においてチェコスロヴァキアという国を彼は体現しているとも言えるし、マサリクの家庭環境を国家として築いた形がチェコスロヴァキアとも言えます。そんなマサリクの夢の国として生まれたこの「ネーション・ステート」は一つの重大な民族問題に取り組まなければなりませんでした。それはズデーテンドイツ人の問題です。ズデーテンドイツ人とはチェコのドイツやオーストリアとの国境地帯にすんでいたドイツ人のことです。彼らはハプスブルク時代には支配民族として大きな発言力を持っていました。マサリクはこのかつての支配民族の全人口における割合を減らす為にチェコ単独ではなくチェコスロヴァキアとしての独立を選択したという噂もあるほどです。マサリクの母親がドイツ語を話していたというのはそれが支配民族の言葉であるからという理由とともに実際にチェコ国内に多くのドイツ人ないしはドイツ語を話す人がいると言うことがあるのでしょう。その意味でもマサリクはこの国を体現していたのです。ズデーテンドイツ人たちはチェコからの分離とドイツへの併合を要求していました。残念ながら歴史の流れはこの生まれたばかりの国に不利に流れました。1933年にヒトラーがドイツで政権を獲得すると、彼は拡大政策を推進します。1938年にドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)するとズデーテン併合の要求は高まっていきます。なぜならそれによりズデーテン地方の国境が全てドイツに接したのです。その後の流れは非常に有名です。ミュンヘン会談においてチェコスロヴァキア代表の出席すらないところでズデーテン地方のドイツへの割譲が決まりました。その後さらに野心をむき出しにしたナチス・ドイツはチェコスロヴァキア本国に手を伸ばします。チェコを「ボヘミア・モラヴィア保護領」として併合し、スロヴァキアを独立させた上で「保護国」にしたのです。スロヴァキアの独立をヒトラーが認めたのは、ヒトラーが欲していたのがチェコ、特にその重工業であり、そのチェコを手に入れるためにはチェコスロヴァキアを解体する必要があり、その手段としてスロヴァキアの独立が有用だったからに他なりません。「独立」や「自治」を要求したスロヴァキア・ナショナリズムはチェコの重工業を欲したヒトラーによって利用されたのです。戦後チェコスロヴァキアは一つの国家として再建されましたが共産圏に組み込まれました。1948年に成立した共産党政権はズデーテンドイツ人問題とチェコとスロヴァキアの問題を強引に解決しようとしました。まずズデーテンドイツ人をドイツへ強制追放します。ズデーテンドイツ人問題はこれにより一応の「解決」を見ました。その一方でチェコ人とスロヴァキア人は一つの民族であるとしてスロヴァキア民族主義を唱えるものを「ブルジョア民族主義者」として弾圧したのです。しかし上からの一方的かつ教条主義的なテーゼの押しつけによって解決できるような問題ではないことは明らかでした。実際チェコスロヴァキアにはチェコスロヴァキア共産党とスロヴァキア共産党という二つの共産党が存在していたという事実があります。このことからも分かるようにチェコではチェコスロヴァキア民族主義とでも言うべきものが広く支持されていました。スロヴァキアで独自のナショナリズムが広がった背景には、ヒトラーが欲したほどの工業国であるチェコとの経済的な格差が大きいと言えます。このスロヴァキア・ナショナリズムはいわゆるプラハの春とその後に続く時代の中でチェコスロヴァキアの連邦化という勝利を収めます。そこにはその時代にアレクサンドル・ドプチェクやグスタフ・フサークといったスロヴァキア人の政治家がチェコスロヴァキアの指導者になったということのほかにスロヴァキアに多少の経済力が付いてきたという背景がありました。その後のいわゆる東欧革命以降、国名のチェコとスロヴァキアの間にハイフンを入れろという論争があったりした後にチェコとスロヴァキアはビロード離婚することになります。民族やナショナリズムといった問題は決して人種的なそれに集約されるものではありません。「民族とは何か?」などという難しいことは私には分かりませんが、それは人が誰を「私たち」と呼ぶかと言うことなのかもしれません。その意味において民族とは精神的、心理的概念であり、生物学上のそれとは全く異なるものなのでしょう。ヨーロッパでは国勢調査の時に民族を「自己申告」する欄があるそうです。民族とは意識するものであり、その過程にはその人の政治的な思想や、経済的利害などが宗教的信条や言語などの文化的な特性とともに入り込むものなのでしょう。チェコスロヴァキアの民族問題はそのことを強く私に印象づけてくれます。いずれにせよそれは擬似的な単一民族国家にすんでいる私たちには分からないものなのかもしれません。


 ベルリンやフランクフルト・アム・マイン、ハンブルグなどのドイツの大都市を見ていると非常にちぐはぐな気がします。これらの都市では近代的なビルと教会などの伝統的な建物の調和が取れていない気がするのです資本主義とプロテスタンティズムが生み出した近代の形とは本来そういうものなのかもしれません。しかし雑然とした実用的な建物が林立するだけの街を見てきた私にとって、ドイツ諸都市の雰囲気はかえっておかしな物に見えたのです。調和という一点に絞るならばプラハは非常によい街です。19世紀そのままの「魔女の宅急便」の世界がどこまでも続いています。それは精神性に浸りすぎた世界のような気はします。石畳の道は歩きづらいし煉瓦造りのアパートはおそらく住みづらいでしょう。しかしヨーロッパの精神世界の奥深さはそれ自体特筆に価するものなのではないでしょうか。完全に観光地に成り下がったプラハ城内の教会などには何も感じませんが、小さな教会などで人々が祈っている姿を見ていて、神について考えるようになりました。やはりそこには何かがあるのではないでしょうか。私は思わず手をあわせて祈ってしまいました。残念ですが私たちの国はどこか大切なところで道を間違えたようです。それはよい悪いの問題ではなく私たちがそういう精神世界に住んでいるというだけのことなのかもしれませんし、むしろ私たちの住んでいる世界は精神的なしがらみのない完全に自由な世界により近いということも可能なのかもしれません。私たちは神を持っていないことを神に感謝すべきなのかもしれません。そう思いながらも何か大切なものを見失っているのではないかという疑問が私から離れないのです。この問題もまた永遠に解けないミステリーなのかもしれません。


 全然危険な目にはあわなかったけど、暗くなってくると警官の姿が目につきます。プラハは大きくてきれいな街ですが、一国の首都と言うよりも観光都市というイメージが出来ました。あちらこちらにみやげもの屋と両替商が林立し、客引きの人があちらこちらにいます。聞こえる言葉は英語、独語も多く意外と会話が分かったりします。中央駅などは英語の嵐でした。そうそうお昼にピルスナーを飲みました。聞いた話によるとチェコがその本場だそうです。おいしかった。  終わりに一つの問いをたてなければなりません。国立劇場前の聖ヴァーツラフ像の下には一つの記念碑が建っています。巨大な建物とその前の銅像と比べると、とても小さな木製の十字架の前にはこう刻まれています。In the memories of the victims of communism.1969年、ここでヤン・パレフという一人の青年がソ連軍の侵攻に抗議して焼身自殺を遂げました。今でも献花の絶えることのないこの場所で人は何を想うのでしょうか。
敬具


参考文献
『ドナウ・ヨーロッパ史』南塚信吾編
『チェコとドイツ』大鷹節子著
『戦車と自由 Ⅰ・Ⅱ』みすず書房編集部
『プラハの春 上・下』春江一也著
「風に立つライオン」さだまさし唄
その他多くのインターネットホームページを参考にさせて頂きました。


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