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マイ・オープニング・フェアウェル

My Opening Farewell
by Jackson Browne

ジャクソン・ブラウンは何とも重い曲を書く人だ。「誰もが口にはしない孤独。失くした愛への想い。社会への不安。自己の矛盾―(『ジャクソン・ブラウン・ファースト』の本間泰樹によるライナー・ノーツ)」。(少なくともぼくが聴いた限りでは)どのアルバムも、よく言えば、内省的で深い洞察に満ちており、悪く言えばちょっと一日の始まりには聞きたくないような、そんな作品に仕上がっている。激動の60年代が過ぎ去った後の物憂げな70年代、ジョン・レノンが「終わった」と宣言した夢を、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングやイーグルスが引き伸ばそうと徒労を重ねていた(彼等は『ホテル・カリフォルニア』でその破綻を自ら認めることになる)カリフォルニアを最もよく表現するミュージシャンの1人であるといえよう。

「マイ・オープニング・フェアウェル」は、ジャクソン・ブラウンがアサイラムレコードから1972年に発売したファーストアルバム『ジャクソン・ブラウン・ファースト(原題:Saturate before Using)』の最後に納められている、ひとつの愛が終わった瞬間を描いた小品だ。その歌詞と共にこの作品を際出せているのは「青春期特有の心のゆらめきを」正確に表現することができた「メランコリックな独り言みたいなブラウンのヴォーカル」だ(吉原聖洋『イーグルス』Tokyo FM出版, 1995, p.121)。街中が寝静まった深夜に、少しスピーカーの音量を絞ってこの曲を聞くと、何とも言えない感傷的な気分に浸れる。

この曲はブラウン自身のほかに、ボニー・レイットが1977年の『スウィート・フォーギヴネス』のなかでカバーしている。「レイット姉御(同上)」の堂々とした名唱もまた素晴らしい。

There's a train everyday
leaving either way

この曲の歌詞の一節は、ぼくに夕闇に沈む甲府駅の情景を思い出させる。それはもちろん、ぼくの個人的な体験に基づくものだから、誰かと共有できるものではないけれども、この曲を聴いた結構多くの人が何かしらの個人的な情景を思い浮かべることができるのではないだろうか。ぼくは、人と人の出会いと別れを日々行き交う列車に重ね合わせたこの喩がとても好きだ。行き交う列車のようにぼくらは出会いと別れを繰り返すけれども、そのなかで「最初の別れ」はいったいいつ、どんなときだったのだろう、とふと考えてしまう。

Jackson Browne (Saturate Before Using)

2008年6月15日

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