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マルクス・エンゲルス ドイツ・イデオロギー

第一章フォイエルバハを中心に

1.はじめに -マルクス主義への視座-

 ソ連、東欧の社会主義体制が崩壊してから10年以上が経過した。「自由民主主義の勝利」や「歴史の終わり」といった言説が世界を席巻し、「イデオロギーの対立から文明の衝突へ」という見方すら出てきた。マルクス主義を最後的に解体してしまったかに見えるこの10年は、しかしながら、西欧における社会民主主義の台頭がみられた10年でもあった。「ニュー・レイバー」をかかげた英国労働党を皮切りにヨーロッパ主要国の政権は次々と社会民主主義勢力の手に落ちていった。もちろん現段階においてこれらの社会民主主義政権がその本来の意味において成功しているとは必ずしも言えない。しかしながら「冷戦の主戦場」であったヨーロッパにおいて全ての左翼的な勢力が後退してしまったわけではなく、むしろ前進すらしたという事実は指摘されねばならない。この社会民主主義の勝利は何故に可能となったのか。この問いに関する答えは至極簡単である。社会民主主義は共産主義ではなかったのだ。「左翼民主党」への党名変更を行ったイタリア共産党に顕著なように、西欧社会民主主義政党はマルクス主義との決別を強調することによって勝利を得たのである。社会民主主義勢力の台頭は、社会主義体制の崩壊という文脈ではなく、世界的規模でのグローバル化の進展とそれに対応するかたちでの新自由主義的言説の強まりの中で崩壊しつつある一国福祉国家体制の再編という流れの中で理解する必要があろう。
 このことは同時に、あらゆる意味において体制としてのマルクス主義が可能性として不可能となり、受け入れられないものとなったということを意味していよう。いくつかの留保条件を付けることは可能だが、国家体制としてのマルクス・レーニン主義体制という20世紀最大の実験が失敗に終わったという事実から我々は出発せねばならない。しかしこのことはマルクス主義そのものを全否定するものではないことを考える必要があろう。確かに体制としてのマルクス主義は終わりを告げた。しかし、いや、だからこそマルクス主義をいま、「絶対に腐敗する」権力とは無縁なものとして、純粋に思想としてとらえ直すことが出来るのではないだろうか(後述するようにおそらくマルクスはそれを望まないだろうが)。そこには社会批判としての鋭い指摘が詰まっていると言えよう。

2.フォイエルバハ

(1) フォイエルバハとは誰か

 フォイエルバハ(Ludvig Feuerbach,1804-1872)はドイツの唯物論哲学者である。若き日のマルクス、エンゲルスに大きな影響を与えた。彼の哲学は一言で言うならば形而上学的唯物論であり、ヘーゲル批判や宗教批判を行っている。このドイツ・イデオロギー第一章フォイエルバハはフォイエルバハ哲学の批判を軸に議論が展開している。この小文もこの点を切り口に入っていきたい。
 フォイエルバハ哲学の批判としてマルクス・エンゲルスが強調する点、それはフォイエルバハ哲学の唯物論の形而上性である。フォイエルバハ哲学及びその唯物論は抽象的な思考を排除し「直感」や「ありのままにみること」を重視する。しかしこのことはフォイエルバハのヘーゲル批判にも関わらずヘーゲル体系から抜け出したことにならない。それらは結局のところ観念上の、表象上の批判に過ぎず、「概念」の支配をうち破る本当の意味での唯物論となっていないとマルクス・エンゲルスは主張する。すなわち形而上の議論によって「概念」を批判しても、言辞に対して言辞そのものを対置しているに過ぎず、その批判そのものが唯物論たり得ないということである。そこではいかに解釈するかということが争われているだけであり、その現実的、物質的な環境とのつながりが問題とされていない。このような問題意識からマルクス、エンゲルスは出発する。

(2) 唯物論とは何か

 では唯物論、もしくは唯物論的批判の方法とは何なのであろうか。ひとことで言うならばそれは「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」と言うことができよう。そこでは現実の諸個人の行動、物質的な生活条件が前提とされる。社会的、政治的な関係や人々の意識といったものはそれらを生み出す人々そのものの生活が前提とされなければならないという主張である。物質的な生活の生産そのものが全ての根本原理とされ、それに規定されるかたちで(経験的に)現実の人間社会や歴史が存在する。すなわち現実の社会や歴史、さらには人々の意識などを考えるには、それらを規定しているところの人々の物質的な生産様式が問題とされねばならないのである。この下部構造が全てを決定するという基本原理を基点としてマルクスは現実の社会に対し鋭い批判の目を向けるとともに共産主義の社会の実現への道を描くのである。

(3) 意識の生産

 ドイツ・イデオロギーの視野は広いがここでは意識についてのマルクスの考察を考えてみたい。先に引用した「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」という言葉はマルクスの「意識」というものに対する考えを完全に示していると言えよう。「観念、表象、意識の生産は人間の物質的交通のうちに、現実の生活の言語のうちにおりこまれている」というとき、意識や観念から演繹的に生活が導かれるのではなく、実際の生活の中から帰納的にそれらが導かれると言う図式が見えよう。

(4) 史的唯物論

 マルクス、エンゲルスの主眼は唯物論的な探求の歴史への適用であり、そこから導かれる近代資本主義への鋭いまなざしとプロレタリア革命への道筋を描く部分はマルクス主義の根幹をなす部分といっても過言ではあるまい。以下簡単に振り返ってみたい。  まず前提となるのが物質的な生産のいくつかの契機である。それは物質的な生産、新しい欲望の算出による再生産、そして繁殖である。言い換えるならば自然的(物質的)な生産としての前二者と社会的な生産としての後者である。これらは別々のものではなく社会的活動の三つの契機であるとともに各個人の「協働」によって行われる。この協働様式そのものが「生産力」となる。マルクス、エンゲルスによるならば人類の歴史はこのような生産諸力との関係において研究されなければならない。
 人類史は性的なものに始まる「分業」によってその発展を開始する。現代において社会的分業のない社会など考えられないが、マルクスによるならばこの分業こそが社会の矛盾を生み出し、その矛盾を起点とする歴史的発展を生み出すのである。分業は当然ながらその帰結として生産物の「分配」という作業を必要とする。自分が必要とするものを全て自分でつくらないということが分業なのだからこれは至極当然である。この生産物の分配が不平等に行われるとき、そこに「所有」が生じる。この所有は種族的所有、古代的な共同体、国家所有という段階を経て発展し封建的、身分的所有となる。さらに所有は私有という形を取って発展し、その集中した形態として資本が発達する。このような所有の形態から人類史が説明されていくのである。

(5) 国家と階級

 この所有との関係において国家というものが問題となるのである。かつて所有というものが種族所有であったころそれは土地所有であり、国家所有であった。しかし、所有は発展段階を通して純粋な私有=資本へと発達する。このような近代的私有に対応したものとして近代的な国家は発展する。この近代的私有に対応した国家とはブルジョワ的所有に対応した国家であるとマルクスは喝破する。  ここで階級というものを少し考えてみる必要があろう。分業とともに生じる私有は不平等な分配によって生じるのだから、私有する人がいるということはその裏には持たざる人が生じるわけである。そしてこの持つ人と持たざる人の差がすなわち階級の差として立ち現れるのである。この階級の持つ特殊な利害は共同利害と矛盾しその矛盾から共同利害は国家として独立した姿をとる。ドイツ・イデオロギーの有名な定義によれば国家とは幻想的な共同性である。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』などにも受け継がれる議論であるが、マルクスはアンダーソンとは逆の点を強調している。すなわち国家というものがつくられたものであるという議論を一方におきつつ、マルクスは国家の共同性に着目するのである。国家の共同性とは以下のようなことである。国家は被支配階級の特殊利害を抑圧するのだが、それは支配階級の特殊利害によってではなく、「一般利害」によってであることにマルクスは注目する。近代国家がブルジョワの所有の保証に対応したものであっても、国家自身が共同性を持つためその利害はブルジョワの特殊利害ではなく一般利害となるのである。実際には特殊利害に過ぎない、すなわち幻想的なつくられたものである国家の持つ共同性は、それを一般的なもの、普遍的なものとして描き出すことによってその特殊性を覆い隠しているとマルクスは主張するのである。
 このことは同時に意識や法の問題とも関係してくる。まず意識というものをみていく。歴史上における様々な思想はその時々の支配階級の思想であるとマルクスは言う。しかし思想というものを一般的なものと考えることによって支配階級の思想に過ぎないものが一般性を付与され、それぞれの時代が支配階級による支配ではなく「たまたまそのとき支配的だった考え方」による支配に歪められてしまうとマルクスは主張するのである。同じような議論が法についても展開されている。共同利害を主張する国家の形態から法律が自由な意志に基づくような幻想が生まれるという主張がなされている。

(6) 共産主義

 ではマルクスの思い描く理想の社会とはどのようなものであったのか。またそれはいかにして可能となるのか。以下そのことを少し考察してみたい。  まず明らかにされなければならないのが、唯物論者としてのマルクスの絶対的な主張である。「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」のだからマルクスの考える理想の社会は人々の意識の変革によって成り立つものではなく実際の変革=革命によって成り立つものである。「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたに過ぎない。たいせつなのはそれを変更することである」という言葉は唯物論者としてのマルクスの面目躍如たるものがある。
 共産主義社会の前提としてマルクスは次のような点を挙げる。ひとつは生産力の発展である。これはおそらく二つの点で重要であろう。ひとつは全ての人々が満足に暮らせるだけの生活を保障するためには生産力の十分な発展が不可欠であること。もう一点は資本主義の発展により階級間の矛盾が拡大しプロレタリア革命が不可避となることである。第二の前提は自らを普遍的なものと考える世界史的な個人でありその普遍的な交通である。第三に無産大衆を各国に同時に生み出すことによって革命は「一挙」に可能となる。換言するならば市民社会の世界同時的な出現こそが共産主義社会の前提とされているのである。
 共産主義の基本的な考え方は「自然成長から計画へ」と表現することが可能であろう。活動が意志ではなく自然成長によって分割されている限り各人はその労働を押しつけられてしまうのであり、分業の廃棄が何よりも必要となるのである。しかしその分業の廃棄は個人の力では無理であり、共同体の下でのみ分業の廃棄による人格的自由が可能となるのである。その共同体とは幻想的な共同体ではなく現実的な個人の連合による共同体であり、分業による結合ではなく個人の自由な発展と運動の条件をコントロールする個人の共同体である。マルクスは以下のように著述する。「共産主義社会では、各人が一定の専属の活動範囲をもたずにどんな任意の部門においても修行をつむことができ、社会が全般の生産を規制する。そしてまさにそれゆえにこそ私はまったく気のむくままに今日はこれをし、明日はあれをし、朝には狩りをし、午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批判をすることができるようになり、しかも漁師や漁夫や牧人または批判家になることはない」と。

3.共産主義は可能か

 このような共産主義がはたして可能なのだろうか。マルクス、エンゲルスの著作はえてして共産主義社会について多くを語らない。共産主義社会が来ることが歴史的必然であると考えていた彼らにとってそのことは大した問題ではないのかもしれないが、やはりこのドイツ・イデオロギーを読んでもその抽象性は否めない。この抽象性ゆえにこそレーニンをはじめとするマルクス主義者は試行錯誤を余儀なくされ、果てはスターリン主義を生み出してしまったと言えるかもしれない。しかしそのようなポジティヴな面の欠落にも関わらずマルクス主義の今日的な意義は決してゼロではない。その近代資本主義に対する有意義な批判的考察は現在でも光を失っていない。今後革命の起こることはまずないだろうが、その思想的意義は確認されねばならないだろう。

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